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原田さん。原田さん。原田さん。
意識が浮上するに伴い、月子は自分の中で祈りのように繰り返される呟きを知る。
(わたしの側には、誰もいなかった。けれど、学校が終わればいつも、あの人が迎えてくれた)
ローズメディカルの、奥の席で。
どれほどその存在が自分の支えになっていたのか、今更のように思い知る。彼の存在自体が御守のようだった。
(本当に、御守だったのよ)
幼いころに迷った森の中で出会った少年。あれは原田だったーーと、月子は確信する。
あの時出会ってからずっと、原田の存在が自分にとって御守だったのだ、と、月子は思う。
だが、それに気づくのは遅かった。月子はついに意識を回復する。呆然と目を見開き、自分の体を確認した。仰向けに寝そべったまま、押し開かれたように体は広がっている。
手を挙げると、血のように赤い天井を背景に、白い肌が浮き上がった。手首には生々しく、握られて抑え込まれたときにできた内出血が青く残っていた。
「うっ」
原田さん、と心でもう一度呟くと同時に涙がこぼれた。
月子はもう、純潔ではないらしい。今さっき、奪い取られたばかりのものは、もう取り戻すことは叶わない。
一糸まとわぬ体を両手で抱えながらベッドから起き上がる。しかし、そこで見たものは、月子にすすり泣きの余裕すら与えてはくれなかった。
白の部屋だったはずだ。さっき、月子が仮面の人物に凌辱された時までは。
しかしそこは、何から何まで深紅に染まった部屋だった。色が違うこと以外は、まるで同じである。ティーテーブルや、花の踊り子の置時計に至るまで、何一つ白の部屋と変わらない。ただ、真っ赤なのである。
月子は天井を見上げる。赤い。
その時、月子は思いだしたのだ。
(婚前まで白の部屋を使用することができる。結婚した後は、赤の部屋に移らねばならない・・・・・・)
ということは、やはり月子は亨に純潔を奪われたのか。
いや、その言い方は正しくはない。亨は月子の夫となる人物であるから、これは正当な行為であるはずだ。月子はこれで、冬薔薇家の嫁となり、色の部屋を与えられたのだろう。
「そんな・・・・・・」
婚儀を行った後のはずである、初夜を迎えるのは。
もしかしたら、今回の連続殺人のためにおおっぴらな婚儀ができなくなったので、事実だけ先に執り行ったのだろうか。
それにしても、あまりにも勝手だと月子は思う。
文字通り、身一つの状態で、月子は赤い部屋の中心に立つ。泣きたい心を抑えながら、とりあえず何か纏うものが欲しいと思った。
部屋は、白の部屋と全く同じ状態であり、クローゼットの位置も同じだった。月子はそっとクローゼットを開いた。すると、赤色の服と下着が一式つるしてあった。
ブラジャーとショーツはレースでふちどられ、あどけないデザインである。服はサテン地の深い赤の、古風なドレスだった。さらりと纏うと、くるぶしまで覆う長さである。
スマホはどこだろう、と、月子は不安に思う。
あのスマホがなくては、原田と連絡が取れない。確か、さっき「気を付けて」というメールが来ていたのだが、本文を読む前にこんな事態になってしまった。
白の部屋に置き去りになってしまったのだろうか。
白の部屋にあったのとまったく同じ書き物机に近づくと、引き出しを開いた。月子は小さく叫びをあげた。
そこには、ちゃんとスマホが収まっている。震える手で取り上げたが、電源が入らないことに気づく。
「ああ・・・・・・」
電池が抜き取られている。
月子は呆然と、スマホを見下ろした。
(誰が、こんなことを)
使えないスマホを引き出しに戻した。
部屋にはうっすらと青臭い甘い匂いーー冬薔薇の香りだーーが漂っている。うっとおしい匂いだ、と、月子は思う。窓を開くと、一瞬目がくらむように思った。
自分は、どうかしてしまったのだと思う。
世界が深紅で染まっているように、見えるなんて。
実際、月子はどうかしているのかもしれなかった。窓から見える風景は、白の部屋から見たのとそっくりそのままなのだが、庭も森も何もかもが、赤く染まって見えた。
おまけに、窓から入ってくるはずの心地よい風は、いっさい感じられなかった。
淀んだ、甘ったるくてぬるい空気が部屋に溜まっている。ここにいるだけで、悪夢に侵食されそうだった。
「う」
月子は吐き気を覚える。
異様な事態を受け入れられないのだ。口をおさえながらバスルームに飛び込むと、トイレットで吐いた。
月子はあまりにも動揺していたので、バスルームの中は赤ではなく、白一色の仕様になっていることに、すぐに気が付かなかった。けれども、確かに、バスルームの中は赤くはなかった。
口をぬぐいながら顔を上げたときーーざああああああーー激しい水音が響いていることに気が付く。
すりガラスの向こう側で、誰かがお風呂を使っている。
ざ、ざあああああああーー。
「誰」
震えながら、月子は言う。返事はない。
ざあああああああ。
「誰なの」
月子はトイレから出ると、おそるおそる、バスの引き戸を開いた。
湯船が、赤く染まっている。
仮面の人がタイルの上に力なくひざまずき、片手を湯船の中に突っ込んでいる。蛇口からは水が怒涛のように流れ続け、湯船からは水があふれていた。
純白のタイルに、赤い縞模様ができている。
月子は一瞬、現実が信じられずに無言で立ち尽くした。数秒後、ゆっくりと息を吸い込むと、悲鳴を上げた。
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