第四部 謎解きの花嫁、冬薔薇を手にし

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**  夢を、見ていた。  深い緑の梢。森はぞっとするほど暗いが、枝のわずかな隙間から差し込む日差しは目を刺すほど眩しかった。  逆光になった彼の顔は見えなかったが、整った輪郭や、ふっさりと柔らかな髪質、なによりその、穏やかで柔らかなまなざしが心に焼き付いた。  「本当はね、君はここに入ってはいけなかったんだよ」  美しいおとぎ話のように、何度もリフレインさせた、その声音。  優しく力強い指が助け起こしてくれる。彼は間違いなく、森の王子様だった。  「ここから出してあげる。けれど、もう二度と来てはいけないよ」  しかし今、月子の体を抱えている腕は、あの頃よりもっとたくましく、ごつごつとしていた。煙草の香りを纏う緑のジャケットが、肌に冷たい感触を残す。  見上げると、無精ひげが僅かにはえが顎があった。目覚めた月子に気づき、彼は歩きながら視線を落とした。  「気が付いたか」    月子は頷いた。    今、月子は体に簡単なローブを纏っている。あの部屋から逃げる際、原田が適当なものを引き寄せて、月子を覆ってくれたのだろう。  亨の遺体を発見した後、月子は卒倒していた。その後まもなく、メイドのすみが部屋に飛び込んできたが。  「すんでの差だったが、間に合ったんだ」  その時のことについて、原田は微笑みながら語る。  浴室で倒れた月子を抱き上げ、あの悪夢の部屋から隠れ道に逃げ込んだ。隠れ道への入り口は、部屋の壁にある。巧みにカモフラージュされており、若いメイドごときには気が付くまいーーと、原田は呟く。  原田に抱きかかえられ、暗い通路をさまよいながら、月子は何度か目を覚ました。揺れ揺れ揺れる腕の中で、最初は酷い絶望に苛まれた。ああ、原田さんだーーと、気づく。それは幸せな発見であり、自分が護られていることへの確認でもあった。  だが、次の瞬間、あのおぞましい出来事を思い出すのだ。  突如、襲い掛かってきた仮面の人物。乱暴に押しつけられたベッドの上。奪われた唇。  そして、あの赤い部屋。  「わたしに触ってはだめ」  と、うわごとのように月子は言った。  「わたしは穢れてしまったのだから」  どうして?  原田はその都度、問いかけた。  最初の数度の覚醒では、その問いかけに答えることすらできなかった。月子はうとうとと夢とうつつをさ迷った。  やがて意識が戻ってきた頃、やっと月子は会話を続けることができたのだ。  「だって、わたしはもう純潔ではないのだから」  と、月子は言った。涙がはらりとこぼれた。  「どうしてそう思うの」  原田は言った。それから、月子を片手で抱え、カタコンベ洞窟の岩肌で背中を支えると、もう片方の手でポケットを探り、赤いセロファンのかけらを引っ張り出して見せた。  千切れたセロファンの破片。  血のような赤。  原田は懐中電灯でそれを照らして見せた。真っ赤な光がセロファンを通して広がり、世界が深紅に染まった。  月子は呆然とセロファンを見つめる。そして、はっと何かに気づいた。原田は頷くと、セロファンのかけらをまたポケットに戻したーーこれは、警察に渡して証拠にするから大事にしなくてはねーー原田は微笑んだ。  「君は、最後まで白い部屋にいた」  原田は穏やかに言う。  「赤いセロファンを貼られた窓のせいで、白い部屋はなにからなにまで赤く染まっていたはずだ。初夜を迎えた後の花嫁が色付きの部屋に異動するという話を、君は前もって聞かされていた。だから、そんな演出をしたのだ」  「犯人」は。  月子はぼんやりと目を見開く。  唇をふさがれた時、口の中に流れ込んできた甘く青臭いもの。あれは冬薔薇だったのだろう。意識を失っている間に、窓は赤いセロファンで覆われる。そして。  「亨は、あの場所で死んだのではない。別の場所で殺された。犯人は、深夜のうちに遺体を運び込んだ」  薔薇荘には、あちこちに抜け穴がある。犯人はそのどれかを使い、遺体を中に運び込んだ。  そして、あのようなセッティングをした。  そんなことができる人物は。  月子の目は表情を失った。ガラス玉のように凍り付いた。震える声で、どうして、と、月子は呟く。  原田はそっと、月子を抱えなおし、また洞窟の中を果てしなく歩き始めた。  「どうしてだと思う」  原田は静かに言った。  「『彼女』は、花嫁を憎んでしまった。花嫁さえいなければ、と思ってしまった。愚かしいことではあるが、そういうものなのかもしれない」  恋、というものは。  月子は原田の胸にしがみつく。  原田の腕はますます強く月子を抱きかかえた。  ゆっくりと、力強く進む原田の足取り。  暗闇の通路の行く先を、しっかりと原田は分かっている。大丈夫だ、この人に任せよう。この人に護られていよう。月子は目を閉じる。伏せたまつげから、涙がこぼれた。  「わたしのせいなのかしら」  月子は小さく呟いた。  自分が冬薔薇家に嫁いだせいで、何人ものが殺されなくてはならなかった。  安藤みか。  そして、母の香までもが。  「わたしが、来てしまったから」    原田の大きな手が月子の頭をそっとなでた。
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