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洞窟の中は相変わらず暗かったが、どことなくほのぼのと光がさしてきたように思う。
原田の腕の中で揺られながら、月子はそっと目を開く。冷たい岩肌に、ほの白い光が僅かに当たっていた。そして、ざわざわという葉の揺れる音や、風の流れを頬に感じた。
出口が近づいている。
「これから、どうなるのかしら」
月子は呟いた。
森の香りが漂い始める。鬱蒼とした緑の世界が近づいている。ほのかに匂い煙草は、原田のものだ。
「全て話すさ」
原田は静かに言う。
「警察も馬鹿じゃない。ある程度まで分かっていると思う。少なくとも、君が亨を殺したはずがないことくらい、見抜いているだろう」
亨は、浴室でこときれたわけではない。全て犯人による演出だったのだ。
(ただ、花嫁を絶望させるためだけにセッティングしたーー)
ぶるり。月子は体を震わせた。
死亡推定時刻と死因がはじき出されれば、月子が犯人ではないことは明白となる。
君は、何も心配することはないのだ、と、原田は告げる。
洞窟の終わりがいよいよ近づいてきたらしい。
木々のざわめきばかりではなく、人の気配までするようだ。
警察が待ち受けているんだな、と、原田が言った。警察という言葉を聞くと、人は本能的にぞっとするものだが、その時原田は、ほっと安堵していたようだ。月子をかかえる手から緊張が抜けたようだった。
「待って」
月子は耳を澄ました。
こつこつ。こつ。
確かに聞こえる。後ろから追ってくる足音が。
「来るわ」
月子は原田にしがみつく。原田は少し笑った。
「大丈夫だよ」
と、原田は言った。それで、月子はすっと心の重荷を下ろした。大丈夫だ、と、彼が言うのだから大丈夫なのだ。月子はそっとまぶたを閉じる。
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冬薔薇は魔性の薔薇。
どうしようもない不幸にさいなまれ、人は時に生きる希望を失う。だけど、生き抜くためには魔性の力を借りなくてはならなかった。
言い換えれば、どうあっても生きようとする思いがあるからこその、冬薔薇ではないのか。
(ママ)
時に、不自然なほど陽気になった香。
原田は言う。君のお母さんは、冬薔薇に憑りつかれていた。働いても働いても、冬薔薇を手に入れるためにお金が出ていったのに違いない。
それは、愚かしいことだ。恥ずかしい、悲しいことだと月子は思う。
だけど、やつれ、疲れ切った香が、冬薔薇にとりつかれてでも生きようとしたのはなぜだろう。
原田の腕の中で、月子は思いだす。
雨漏りのする屋根の下、オレンジ色の照明の中で、味噌汁を作っていた香の後ろ姿を。
どんどんと原田は進み、やがて洞窟の外に出たようだ。ざわざわと風が吹き荒れ、森は騒いでいた。森のざわめきの中に、確かに人の気配がしている。
止まってください、警察ですーー威圧的な声が聞こえる。原田は立ち止まり、声のするほうに向きなおったようだ。
「この方は」
と、警察に問いかけられた原田が、
「緑野月子さんです。寝ているだけです」
と答える。
冬薔薇月子ではなく、緑野月子と。
味噌汁を作り終えた香が振り向き、幼い自分に微笑みかける幻影を、月子は見たように思う。
「月子、ここから逃げなさい」
淡い夢の中で、香が、やさしい顔で、そう告げた。
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