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04.
「あと十秒よ」
トユンが追憶に耽っている間にも無慈悲に時は進み、カウントダウンは止まらなかった。それでも尚答えが決められていないトユンは、己の優柔不断を恥じた。あの時のランの言葉は正しかったのだと理解し、両手をギュッと握りしめて拳を震わせる彼に、こんな状況とは不釣り合いなほどの落ち着きを払った穏やかな声がかけられた。
「ねぇ、トユン。最後に私の話も聞いて欲しいの」
鼓動がいつもよりずっと速く脈打ち、血を送り出すスピードは遅くなることを知らず、元の速さを見失ってしまっているようだった。
「あと五秒よ」という冷淡な通告が届いた。
「友達がいれば、どんなことでも乗り越えられる。トユンたちなら大丈夫」
トユンは地面を睨み付けるのを止め、弾かれたように顔を上げると、目の前に立っているベルを見据えた。口にせずとも、答えが決まったのだと相手に伝えることが出来た。
テーザーガンを床に捨て、カウントダウンを終了させた母親-アンリを睥睨した。まるで少年の瞳は宣戦布告を物語っていた。
「決めたよ」とトユンは凛とした声で相手に言い放った。場所が変わったわけではなかったが、トユンは妙に澄んだ空気が流れているような気がして、まるで大自然に身を置いているような気分になった。
「ラン、ごめんね」
目を閉じたまま、ランは首を横に振った。
「キミならそうしてくれると信じてた。キミたちと友達で居られて嬉しかった。これでさよならだ」
すぐさま決意を固めた彼の、最期になる予定であったろう遺言をトユンは否定した。小説の登場人物のように恰好を付けて散るのが彼の夢だったであろうし、先ほども言っていたようにちっぽけなプライドがあるようだが、そんなものトユンは知ったことではなかった。彼の気持ちなど考えられないほど、ベルの言葉が大きく心を動かして、答えへの確信を抱かせたのだから。
「ランのことは殺さない」
瞠目したランの瞳に失望はなかったが、怒りの色が満ち溢れていた。彼はトユンを"優しすぎる"と揶揄したが、そっくりそのままランに返したいと思っていた。合理主義者に見えてロマンチスト。冷酷に見えてお人好し。ランとは結局そういった少年であることを、トユン自身が誰よりも知っていたはずだ。
ランを見捨て、ベルを生かす(この表現が正しいのか?)ことに同意出来ない彼は、あまりにも優し過ぎた。それはベルにも言えたことだったが、死を免れてもこんな瞳を浮かべることが出来る思慮深さが、トユンに自慢の親友だと思わせた。
「どうしてだ!」ベルを殺す選択をしたことが相当許せないようで、ランはトユンをきつく睨みつけていたが、彼女を殺すとは一言も言っていなかった。
「ベルのことも殺さないよ」
この片言にはランはもちろんだったが、ベルもきょとんとしてトユンを見ていた。 トユンがトラウマを克服し、前を向く力を手に入れ、現実に戻ることが出来るのだ。ベルを殺すのではなく、受け入れるという方法で。彼女の姿が消えてしまうことには変わりなかったが、殺すよりずっといい方法に間違いなかった。誰の良心も痛むことはない。これがトユンの導き出した自分たちのHappyEndだった。受け入れるという方法は他の誰でもない、ベルが教えてくれたことだ。
『友達がいれば、どんなことでも乗り越えられる』ベルはトユンにとってかけがえのない大切な親友だった。母国である韓国にもたくさんの友達が居たトユンだったが、親友と呼べる特別な存在はいなかった。そんな中、ベルだけは胸を張って親友だとみんなに言って回れるような相手だったのだ。代わりが利くことのない存在で、今も変わらずそうだった。だが、トユンにはベル以外にも今や多くの親友と呼べる存在が出来た。ラン、ホシノ、デイヴ、彼らはトユンにとってベルと同等に特別だった。たった一人の親友を失くし、打ちひしがれ、心を閉ざしてしまったあの頃とはもう違う。トユンには彼らが居るのだ。彼らが居てくれさえすれば、辛い悲しみも乗り越えられるとベルの言葉で気づかされた。
「トラウマを消し去るんじゃなくて、受け入れることで前に進む。これが僕の選んだ答えだよ」
心の闇は自分も気づきたくない汚い部分で、人はみんな隠そうと躍起になる。汚い部分はない方がいい。悲しいことも辛いことも忘れられる方がいい。弱い自分は打倒しなければいけない。闇を消して、光だけで心を照らすことこそが正しいと多くの人たちが言うだろう。
しかし、トユンは間違っていると思った。本当の意味で前に進みたいのなら、己の汚い部分と向き合わなければいけない。悲しいことも辛いことも、繰り返さないように心に刻みつけなければならない。弱い自分を受け入れなければならない。光だけでなく、闇も知らなければならない。前を向くには、強くなるには、必要なことだった。
トユンは今日まで逃げ続けてきた。記憶を失くし、大切なベルの存在まで忘れて、全てをなかったことにしようとしていた。逃げることが悪いとは言わないが、逃げ続ければ先にはもう何も残っていないのだ。かつて(記憶喪失)のトユンのように、何もかも失ってしまうのだ。大切な物さえ忘れてしまうなら、辛いことも覚えていた方が良いはずだ。
「ねぇ、見て。トユン!」
歓喜にも似た声を出したベルの方へ視線を転じると、彼女の足元からまるで風が吹き抜けるようにスカートが静かにたなびいていた。僅かにベルの姿が透け始めている。透明になっていきながら、風と空気と混ざり合い、形を失おうとしていた。
トユンは己の判断が、選んだ答えが、正しかったのだと理解し、胸を撫で下ろした。ベルという存在は、トユンの心に巣食うトラウマではなくなるのだ。
「すごいわ、トラウマを受け入れる答えを見つけるなんて」
「ベルのおかげだよ」
トユンは微笑してベルの手を握りしめた。まだ温もりは感じられるが、すぐになくなってしまうのだろうと思うと急激な寂しさに襲われた。こんな形ではあったが、せっかく再会出来たというのに。またさよならを告げなければいけないなんて。トユンは胸が張り裂けそうな想いだった。やりきれない気持ちを押し込めるように、トユンはベルを強く抱きしめた。言いたいことが色々あるはずなのだが、伝えなければならないことが山ほどあるはずなのだが、どうしてか言葉は一切出てこなかった。
暫くして、震える背中を擦ったベルが「泣いてるの?」と鼻をすすって冗談交じりに聞いてきた。トユンは腕の力を強めて、彼女の肩に顔を埋めると「泣いてないよ」と答えた。そっか、と零したベルの声は、今にも消えてしまいそうなほどの声量だった。
「もう消えちゃうかも」
このままずっと彼女を抱きしめていたかったが、ベルはゆっくりと離れるとトユンのスカイブルーの瞳を見つめた。半透明のベルは、もうその体を通して向こう側まで見えてしまうぐらいに姿が消えていた。いかないで、とは決して口にしなかった。どれだけ悲しくても、悩み抜いて導き出した答えを自ら否定したくはなかった。
二人の手は握り合ったままだった。
「どうしよう、最期の言葉なんて思いつかないわ」
「僕もだよ」
じんわりと涙が浮かび始め、トユンは慌てて目を擦ると空笑いして誤魔化した。
「やっぱり泣いてるわ」からかうように指摘してきたベルに、トユンは「泣いてないよ!」と言い返した。おかしそうに笑い始めたベルの瞳にも微かな真珠が輝いていたが、トユンは触れることなく一緒になって腹をかかえた。
キミのことで笑っていられるのなら、きっとこれから先も大丈夫だ。
トユンは心の中でひっそり願った。いつかまた、必ず笑って逢える日が来るはずだ。
「まぁ、いいんじゃないかな。また会った時に話そうよ」
「そうね、また会った時に話せるわよね」
二人は顔を見合わせるとぷっと吹き出した。
まるで彼女が天国へいくなんて信じられないことのようだ。どこか違う街に引っ越すような感じで、だが長い目で見ればそれもまた間違ってはいなかった。いつしか人はみんな死んでいくのだから、その終着点に彼女は一足先に行っているというだけの話だった。何年先になるかは分からないが、遠い未来のその先で、ベルと再会し、今までと変わらず語り合うのだろう。
ずっと握りしめていた手が解ける。相応しい言葉があるではないかと、トユンたちは分かり合っていた。
「ありがとう」
ベルが小さく片手を振る。
トユンも笑顔で手を振り返した。
「また逢える日まで、どうか元気で」
思い出は全て彼女に預けておこう。こちらはきっと、土産話が数えきれないほどになる。
ベルの姿は跡形もなく、その場から消え去っていた。しかし、トユンの手のひらには未だ彼女の温もりが宝物のように残っていた。
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