神討ちの獣たち

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   この『大陸』は、かつては多くの神々が住まう地だった。  生きとし生けるもの全てに魂があり、それは体に意志を宿して一個の命と為す。  赤子に、種子に魂を導き誕生を促す『守護神』たち。  彼らはかつて世界のすべてに満ち、獣たちに子を為さしめ、木に果実を実らせて世界の命を支えていた。  神々の加護の下、全ての命あるものは慎ましく暮らしていたのだ。    そのくびきから人間が外れた。それがすべての始まりだった。  神を排し、自ら自身を治める道を選んだ人間たちは、自らの『王国』を作った。  神々を守る定めに留まった獣たち、鳥たち、魚、虫、そして竜たちは『魔族』と呼ばれ、彼らの住まう地は人間たちから『魔界』と呼ばれた。  人間たちは魔界の豊かな実りを求め、魔族たちから奪おうと戦を仕掛けた。  そんな争いに疲れた者たちが、最果ての地に『境界』を作り、そこに逃げ込んだという。     そうして三つに分かたれた『大陸』。  他者から実りを略奪することで増えすぎた人間は、今や食と住まいを巡って仲間内で相争った。  住む場所を無くした人々は南の砂漠に追いやられ、多くはその先の『境界』に辿り着く前に命を落としていった。  そんな争いから時と共に遠ざかった『魔界』もまた、安泰というわけではない。  神の恵みは無償ではないのだ。  今日も今日とて、彼らは厳格な世界の摂理と過酷な戦いを続けていた。        魔界の東端。  王国との国境に程近い樹海には『獣族』という魔族の一派が住んでいた。  読んで字の如く獣の形質を持つ彼らは一様に俊足であり、狩りの名手として一族諸共名高かった。  獣の形質と言っても様々だ。  四本足で歩く者も二本足で歩く者もいたし、全身毛皮で覆われた者もいれば、人間のように素肌を晒した者もいる。顔も犬だったり、熊だったり、猫だったりと様々。二本足の者は更に、獣の爪を持つか人間のような指を持つかに分かれる。  他の種族も似たようなもので、普通の動物に比べて大柄なこと以外は魔族は姿に統一性が薄い。  しかし魔界全土で全く同じ鉄則を共有することもあった。  王と男は守護神に仕える戦士となり、敵対する者から種族を守ること。  女は彼らの生活を支え、子を産み守り育てること。  どちらも必要ない時は、畑を耕し狩りをして群れの食料を支えること。  誰にも役割がある以上、仲間入りする者は歓迎され、共に支え合って暮らしていた。     その日生まれた女の子も、勿論その例に漏れなかった。  獅子の耳に尻尾を持った人間そっくりの女の子は、集落中から祝福されたのだ。  我が子の誕生に両親は勿論喜んだし、笑顔を分かち合う仲間たちに心からの感謝を送ったが、しかしこれもまたありふれた光景だ。この魔界では誰もがこうして生まれる。  だから木と干し草の家の中に自分たちの王が現れても、驚く者も恐縮する者もなかった。 「おめでとうサイアス。ご苦労じゃったフェリア」  好々爺そのものの声で祝福したのは、大柄な銀の狼。  雪原を思わせる白銀の体毛を持つ『狼王』フェンリルは、肩書以外にも『銀狼』『吹雪の子』など様々な名を持つ勇敢な老王だ。  一応の儀礼として集まった民たちは一度頭を下げたが、手があるものは木のジョッキを持ち、四本足の者は地面に置いて木の実の酒で祝杯を挙げた。  めでたいことがあれば魔族たちはこの通り無礼講だ。人の家に勝手に上がり込んで酒をすするし、狼王も特に余計な言葉は無い。  彼らの横をすり抜けて新生児とその両親の元に歩み寄った。  最初こそ穏やかな目つきだった狼王は、しかし子供の姿を見るなり目つきを曇らせた。 「……毛のない子じゃな」 「はい」 「どうしましょう……そろそろ冬ですぜ、狼王様」  母親の猫女が腕に我が子を抱いたまま物憂げな声を出し、父親の豹がお座りの格好のまま俯いた。  通常獣族は獣さながらに毛深く、寒さに強い。  もちろん子供は貧弱だが、それでも申し訳程度の毛皮はある。  しかし今日生まれた子の身体は、耳と尻尾以外が人間のそれだ。具体的には体毛が薄い。それは即ち寒さへの耐性が無いということだ。  昨今はこのような姿の子が増え、魔族たちは皆頭を悩ませていた。 「受け皿の無い人間の魂が、子供の姿にまで影響を与え始めたか」  この世界に在る守護神たちは、新生児に魂を吹き込むと共に死者の魂から記憶を預かり、自らの糧としてまっさらに浄化する役割も持つ。  言わば生まれ変わりであり、前世の記憶を子供が持っていることはないが、魂自体が前世の記憶を引きずっていることはある。  かつて、人間は自らの守護神を棄てた。  どうやってかは誰も知らないが、とにかくいつからか人間の守護神は消えていたのだ。  それ以来人間の魂は行き場を失って魔界の守護神に流れ、彼らに浄化されて生まれ変わるようになった。  そんな魂の中には前世の記憶を持つものもあり、時折こうして魔族の子に人間の形質を宿してしまうのだ。  賢いが獣に比べて足が遅く力の弱い人間は、魔界の自然の中で生きるのには適さない。狩りに長けず、戦いにも不便する。  狩りは我が子を養うために男女共同で行うのだ。  そして女の子だから、戦いは男の仕事だからと言って、魔界では戦いと無縁ではいられない。  魔界に暮らす者は常に恐るべき存在との共生を余儀なくされている。  それは守護神を持つが故の実りの対価だった。 「狼王様、魔神は」 「……折の悪い事よ」    狼王の耳の奥に、拍動のような音が響いている。  それは種族の王に守護神が下す警告だ。 「……三日以内に来るじゃろう。子供らが凍えぬよう、できるだけ人数が集まれる隠れ場所を作るとしよう」  王の言葉に、浮かれていた場の空気は鎮まり男たちは粛々と働きに出たのだった。   「もっと深く穴を掘れ!」 「柵が弱い、支えを強めろ!」  子供の誕生祝を終えた獣たちは、皆集落のはずれに集まって仕事に勤しんでいた。  犬のように足の達者な者は塹壕を掘り、手先が器用な人型に近い者は柵を建設して防壁を作る。  晩秋の今、木の葉はほぼ落ち切っている。木を伐るにも苦労は少ないし、枝を落とせばそれはすぐに矢や槍に加工された。  どこからどう見ても戦いの準備だ。  現在魔界は人間たち、および彼らの勢力である王国とは戦争状態にない。  しかし彼らは人間などより遥かに恐ろしい敵と戦わなければならない宿命を負っていた。  それ故に魔族は、特に戦士たちは皆精強だ。  誰もが脱兎に追い縋る俊足と、熊のような腕力を持つ。  大木も石斧の一撃で叩き伐るし、大きな丸太も一人一本単位で運べるほどの剛腕だ。  それは普段の狩りや畑仕事にも大いに役立てられることだが、勿論戦いにおいても大いなる武器だった。  しかし、 「おいサイアス、娘さんが!」 「……なに、熱と咳!? 生まれたばかりだぞ!」  子供が脆弱なのは結局どんな生き物も同じである。  父親になったばかりの男が浮足立つのを見て、銀狼は目を細めて彼を子供の下に送り出した。  魔族たちは有り余る力の割に謙虚であり、弱者に対し寛容な種族だ。  この通り子供は大切にするし、何より命を重んじる。  無益な殺生を好まず、守れる命は力の限り守る。  それが彼らの中に通う守護神の教えだった。 「狼王様……どうも薬が切れてるようでして、他所の里から貰うしか」 「……良い、行ってくるのじゃ。皆も文句は言うまい」  王に許された豹の男は、一礼すると西へ走り出した。  獣族の戦士は百人に満たない少数精鋭だ。なので一人が欠けるだけでも戦力として弱るが、しかし我が子のための離脱を咎める者はいない。  魔族とは得てしてそういう生き物だった。    彼らが何故それほど命を大切にするのか。  子供を守り、育てるのか。  それは簡単に失われるためだ。  気候、病、飢え、天敵。野生の生き物の死因は多々あるが、魔族は後半二つとはほぼ無縁だ。  彼らは強く天敵を持たない。そして何でも食べる故に飢え死にもほとんどあり得ない。  にもかかわらず魔族は全体の数が少なく、そしてほとんど増えることはない。  種族が栄えるという事が無いのだ。  それは彼らが戦う『敵』のせい。  その存在によって魔族たち――かつては人間も――間引かれ、増殖に歯止めがかけられていた。    狼王が予言した三日後。  二日目の時点で降り始めた雪はすでに根雪となって魔界を白銀に染めていた。  獣族の隣の領地に住む種族、翼人族の集落からもそれは確認できた。 「あ、あぁそんな」   サイアスが振り返ると、獣族の領地には『山』が出現していた。  草木だけがあるはずの平坦な森に、出現したそれは、山としか形容できないような巨大さだった。  あれこそが魔族が抱える未曽有の敵。 「魔神」  獣族の領地に聳えていたそれは、在り得ないほどの巨躯をもった大猿だった。        守護神は死者の魂から記憶をくみ取り己の糧とする。どんなモノでも糧が無くては生きていけない。  そして同時に食べるだけでも生きていけない。やはりどんなモノでも喰えばその分の排泄が必要だ。  守護神にとってのそれは、彼らを崇拝する民たちにとって最も恐るべきことだった。  守護神が死者の記憶を受け取る時、それは『神気』という神々のエネルギーに変化する。  神々にとっては養分であり、魂を導くために、何より彼らの存在のために欠かせないものだが、神の器にも限度がある。  神気をため込みすぎた守護神はその『発散』のために姿を現し、領内で暴虐と破壊の限りを尽くす。  それが『魔神』、もしくは『魔神化』と呼ばれる現象だった。  魔界が、魔族が、何故その名で呼ばれるのか。  それは彼らが魔神を鎮める使命を持っているからに他ならない。 「……さて、戦えぬ者は隠れたな」  簡素な家と畑だけの牧歌的な集落には、風景に似合わぬ不穏な空気が満ちていた。  狼王の前に集った獣の戦士たち。二本足で立つ者は手に木と石の槍を持ち、四本足の者は頭と胴に革の鎧を付けている。  そうして武装した男たちの姿は物々しいが、空気の悪さは雰囲気だけではなく目に見える形でも現れていた。  魔神の出現と共に獣族の領地を謎の白い霧が満たしている。  薄らと輝く白い霧は、しかし水分とは違う嫌な生暖かさを含んでいた。  初冬にも関わらず獣たちの毛並みを舐めるような暖気は、首元に突然氷を当てられるような嫌な寒気を齎すものだ。  誰も皆狼王の号令を待っているが、彼らは一様にその発生源たる森の向こうを見つめていた。 「獣神様」 「今回も派手に暴れているな……」 「早くお救いしてあげよう」  木々以外何もなかったはずの森の中に突然現れた巨大な影。  それこそがこの奇妙な霧を発生させる元凶だった。  黒毛が艶めく巨大な猿の姿をした、獣族の守護神にして魔神の姿。  獣族の神とのことで『獣神』と呼ばれるそれは、異様な緑色の眼光をぎらつかせ巨木の如き腕を振り回して大暴れの様相だった。  樹海の高い木々の更に数倍はある体躯を持つそれが腕を一振りすれば、遥か彼方の集落にまで雪を纏った烈風が吹き付ける。  そして、一緒に運ばれてくる白い霧は、それこそが守護神の力である『神気』だ。  そもそも魔神化とは、守護神が体内に溜めた余剰の力を放出するために発生させるのだ。  このように神気の霧が辺りに放出され大気を満たすのは、一応神気を放出するという本来の機能が果たされている証だ。  しかし魔神の一挙手一投足で足元の木々は根こそぎ吹き飛ばされ、巻き上げられた土砂が細かい砂粒となって獣戦士たちの元まで運ばれてくる。それほどに激しい暴走。  草木一本とて生き物だ。勿論一つ一つに魂が宿っている。  ああして暴れた魔神が小さな命を散らす度、すでに飽和した神の器に更なる魂が注がれ暴走が激化する。  故に、いつまでものんびり眺めてはいられない。 「……では、いくぞ者ども」 「「「応!」」」 「「「我らが守護神に!」」」 「「「家族のために!」」」  号令と共に吼えたてる獣たち。  彼らを伴って、狼王フェンリルは森へと分け入った。  真昼でありながらも霧の立ち込める森の中は薄暗い。数分も前進すれば目の前の仲間の背中すらも霞むほどだ。  しかして獣たちは鼻が利く。耳もいい。  視覚に頼らなくても臭いで、足音で、先導者の気配を追い森の中を迷わず進むことができる。戦士たちには倒すべき魔神の気配が近づいてくるのが感じられていた。    それは勿論、同じく獣たる魔神にもわかるものだ。 「!」  突如として烈風が吹き荒れ、霧が晴れた。  奔る獣たちが頭上を振り仰ぐとそこには空を覆う黒い塊。  あまりの巨大さに彼らが全容を見ることはかなわないが、それは大猿の繰り出した拳だった。  拳と言ってもその規模は隕石の衝突と変わらない。  一撃でも貰えば戦士たちは直ちに全滅だが、 「怯むな」  檄と共に狼王が地を蹴った。  空中に身を躍らせた狼は、あろうことか巨拳に体当たりを仕掛けたのだ。  丘一つまるごと降ってきたような一撃は、しかし狼の体当たり一つで弾き返された。  言うだけなら軽々しい印象だが、無論尋常の衝撃ではない。  狼王の跳躍は近くにいた戦士たちをしたたかに転倒させ、衝突の余波で辺りの木々は根こそぎ吹き飛んだ。  後ろの集落はこの一撃で壊滅だ。  家は地面に根差しているわけではない。木を組み、干した野草の茎を屋根にしただけの家は紙のように倒壊し、雪が吹き飛びその下の土も捲れあがって集落はあっという間に土砂に埋もれた。  それでも、狼王は初撃を犠牲なしでしのぎ切ったのだ。  拳を止められた大猿は腕を体ごと大きく弾かれ、攻撃を止めきった狼王も着地と共に地面に亀裂を入れるほどの衝撃を受けた。  森の中ではちっぽけな狼王の着地は受けた衝撃故に微かに地面を揺るがし、後続の足をもつれさせたが、それでも彼らは走り続ける。 「恐れるな……お前たちの身はワシが守る。足下に迫り、魔神の力を削るのじゃ」  これが魔神と魔族の戦い。  彼らは広大な森の中を魔神の足元まで進み、攻撃を仕掛けて魔神から力をそがなければならない。  さもなくば魔神は領内を荒らし尽くすまで暴走を止めず、増え続ける犠牲がさらに事態に拍車をかけることになる。  王は生物の限界を超えた力を以って戦士たちを魔神の攻撃から守り、共に魔神を鎮めるのだ。    しかして蓋を開けてみれば、戦いはまだ初撃を防いだだけに過ぎない。  魔神と戦士たちの距離はまだ遥か。  まずはあの大猿の足元に辿り着かなくては戦いにならないのだ。  霧の吹き飛んだ頭上では、すでに大猿が二発目の拳を振りかぶっている。  狼王も踏ん張りなおし、すでに助走を始めていた。 「……行くぞ!」  「「「応!」」」  勇ましい鬨の声は、大猿の咆哮と戦慄する木々のざわめきに溶けていった。      一方、命のかかった事案は何も魔神との戦いだけではない。  事前に戦士たちが作っていた塹壕と防壁は期待通りの機能を発揮し、非戦闘員の女子供、それから年寄りを魔神の攻撃の余波からしっかりと守っていた。  しかし、防壁が防げるのは物理的な威力だけである。  落ち葉が積まれた塹壕の中では、小さな命が身に潜む敵を前に危機に陥っていた。 「おチビちゃん、しっかり、しっかり……!」 「もうすぐお父さんがお薬を持ってくるからね」 「あぁ、どうしよう、どうしよう!」  生まれたばかりの子供は普通風邪をひきにくいものだが、獣族でありながら毛皮を持たない女の子は特別身体が弱かったらしい。  母の胸の中で小さな口から苦し気な息を吐き、絶え絶えに咳をしながらぐったりと身を擡げている。  我が子の危機に若い母は大いに狼狽え、集落の女たちは彼女を励ましながら毛布を運び、周りの雪を氷嚢の代わりにして懸命に世話を焼いた。  勿論、集落の子供は生まれたての赤ん坊だけではない。  魔神の恐怖の前に大人しくしてくれる子もいれば、じっとしていられず危険な塹壕の外に出ていこうとする子もいる。  子供たちを守るために女と年寄りが右往左往するこの場所も、前線とはまた趣の血かがった戦場の様相であった。    そんな時。 「!」  一際大きな衝撃が地を揺るがし、防壁を軋ませた。  魔神の拳が地を撃ったのだ、と元戦士の老爺の誰かが呟き、騒いでいた者たちは全員凍り付いた。  暴走している魔神の攻撃が地面を掠めることはあるが、今のはかする程度の威力ではない。  明確に攻撃とわかる、ほんの一瞬だけの大地震だった。  足元に攻撃を仕掛けるという事は、あの巨体の程近くに敵対者が迫っているということ。 「……戦士たちが魔神に辿り着いたんだ」  かつて戦士だった数名の老爺がそう告げると、まるで大地が拍動するかのように巨大な揺れが頻発し始め、防壁の外には絶えず烈風が吹き荒れた。  こうなるともう誰も立ってはいられない。  防壁の中、誰もが我が子に、手の空いている者は危篤の子供とその母親に覆いかぶさりその身を守った。  塹壕の中に入っていてもその有様なのに、烈風を通り越した衝撃波が吹き荒れる穴の外に出ていく者などいない。  強靭な戦士ならともかく、子供ならそれこそ向かい風に遭った鳥のようにふきとばされてしまうだろう。  なので、 「うわっ」 「おわぁっ」  塹壕の外から轟音に混じって二つの悲鳴が聞こえた時、誰もが耳を疑った。 「今のは……」 「上よ!」  誰かの声に続いて皆で空を見ると、何か大きなものが塹壕の中目掛けて落ちてくる。  羽を散らしながら墜落するそれは鳥のようだが、その足には何かが捕まえられていた。 「……あなたっ!」  叫んだのは若い母親、猫女のフェリアだった。  近づいてくると大きな鳥が梟だとわかり、その足に捕まえられているのが豹の魔族ということも確認できた。  どうも衝撃波で翼をやられたらしい梟は、豹を捕まえたままきりもみ状態で落ちてくる。  獣たちは慌てて場所を開け、ついでにその場所にありったけの落ち葉を積んで緩衝材にした。  結局梟の魔族は豹のサイアスを抱えたまま地上に激突したが、そのおかげで両者ともに特にけがを負わずに済んだのだ。 「梟の御仁、すまん!」  豹は大急ぎで立ち上がると頭から落ち葉に突き刺さっている梟を村の衆に任せ、自分は妻子の下に向かった。  口には、毛皮でくるまれた草が咥えられている。  豹は手近な狐耳の老婆にそれを渡して、妻子の前にお座りした。 「すまん、遅くなった。梟の御仁が翼を貸してくれなければ間に合わんところだった」 「あなた、この子が、赤ちゃんが……!」 「大丈夫じゃ、この薬草を煎じて飲ませればすぐに良くなるよ……それより」  老婆と村の衆が防壁の向こうに視線を向けた。  地面の揺れは収まらず、吹き飛ばされた木端が頭上をすり抜けていく。  まだ戦いは続いているのだ。  魔神の足元では、王と彼の仲間たちが家族を守るために戦っている。 「俺は行く。フェリア、皆、子供たちを頼んだぞ」  妻の祈りと村の衆の応援を背に、豹の戦士は走り出した。        天を衝くような巨大な魔神は、近づこうとするだけでも大きな危険が伴う。  ただ視認されるだけでも幾度となく拳が降り注ぎ、、王の存在無くしてはどんなモノでもそれだけで粉々に打ち砕かれる。 足踏みをすれば地震を発生させ、咆哮を間近で聞けば鼓膜が破れる。  まして足下に迫ったとなれば、ただの身じろぎ一つさえも大いなる脅威だった。 「怯むな! 叩け叩けぇ!」  そんな生ける天変地異の足に向かって、獣の戦士たちは果敢に立ち向かっていた。  毛に覆われたまるで塔のような太い足に、小枝のような槍を、虫けらのような爪牙を以って戦士たちが微かな傷を付けていく。  それはあの巨大な魔神の前ではあまりにも無意味な抵抗に見えたが、 「いいぞ、動きが鈍っている!」 「王の準備が終わるまで持ちこたえろ!」  刻み込まれた微かな傷からは神気の霧が漏れている。  戦士たちの攻撃が確かに魔神を弱らせている証だ。    勿論、ここまでの戦果は無傷では得られない。  魔神の足元には無数の血だまりができ、あの足に踏みつけられて原形をとどめていない獣たちの亡骸が無数に転がっていた。  彼らもまたここまででおよそ三分の一が脱落したか死亡している。  お互いに満身創痍になっているが、それでもまだ決着はつかないのだ。  戦いに終止符を打つ力は、この魔界においては王のみに与えられるものだった。  狼王は戦列から少し離れたところでお座りの格好をしている。  目を閉じ微動だにしないその体は薄らと白く輝き、何かの力をため込んでいるように見えたが、 「……足りんっ」  王の存在が危険だとわかっているのか、大猿は執拗に狼王にその拳を向けてくる。  集中の解かれた狼王の身体からは光が霧散し、ため込んだ力も無駄に終わってしまうようだった。  魔神は確かに弱っているはずだが、王が決定打を放つための余力が足りない。  誰かがひと時魔神の注意を逸らせればいいのだが、それほどの魔神に目を付けられるような戦士はいない。  自身に近づいて来る者には反応を示した魔神も、このように味方が一か所に集まってしまえば他所に注意を惹くことは難しい。  歯がゆい思いをする獣の戦士たち。  そんな中。 「皆、待たせたな!」  霧の向こうから声が聞こえた。  誰もが注目した先にいたのは、娘の治療のために離脱していた豹の戦士。  そして、 「サイアス危ない、避けろ!」 「うわぁ」  闖入者に反応した獣神が、豹の戦士に拳を降らせた。  豹は寸でのところで何とか拳を躱したが、増援に怒った大猿は辺り構わず暴れ始め、戦士たちは離散して何とか攻撃を捌き続ける。  一見危険な状況だが、 「サイアス、よく戻った……!」  同時に、狼王はしつこく狙われることも無くなった。  暴れまわる魔神の攻撃は誰を狙ってのものではない。闇雲に手足を振り回すのみだ。  狼王はこの隙に瞑想を始めることができていた。  銀の体毛に光が宿り、少しずつ森の一角を満たしていく。  そして、 「……よく戦った、戦士たちよ」    魔族の王たちには、魔神に止めを刺すための特別な戦闘力がある。  『神化』と呼ばれ、一時的に彼ら自身の身体を魔神同様の巨神に変じる秘術。  それは長い溜めを要するために王一人ではならず、戦士たちが魔神の力を弱め隙を作らなければならない。  逆にそれが成った時こそ、魔神との戦いの終幕。  魔界の樹海に、もう一つの巨大な獣が現れた。  現れたのは狼の姿。体毛は白銀。  『神化』によって巨大化した狼王の姿だった。 「……皆、祈りを」  戦士たちはそれぞれ、魔神と自らの王の前に跪いた。  暴れ狂っていても、あの大猿は彼らの神なのだ。  有り余る力に苦しむ神に、解放への祈りを。  そのための戦いに散った仲間たちの魂に安息あれと。  向かい合う神と王の足元で、獣たちの祈祷が厳かに響く。  動きの鈍った大猿に当初の力はなく、拳を振り上げる動きが鈍い。  獣神の攻撃を身を捩って躱した巨狼は、自らも爪を振り上げ、 「我らが神よ。今ここに魔性を棄てあるべき姿に戻り給え」  その一撃が大猿の身体を両断し、霧散する魔神の身体は光となって魔界の森を染め上げていった。        無事に魔神を鎮めた戦士たちが元来た道を戻ると、そこにはすでに集落の姿はなくなっていた。  そこにあったのは瓦礫の山。  魔神との戦いの余波に破壊され、彼らの故郷は無残な廃墟と化していた。 「………」  誰も皆、言葉は無い。  落胆を口にすることも無い。  これが魔神戦の常であり、彼らが抱える宿命の一つだった。  いつもの事なので戦士たちは泣き言を口にすることも無いが、崩壊した故郷を見れば当然気分が落ち込んでいく。  だが、 「帰ってきた!」 「戦士たちが帰ってきた!」  表情の暗い彼らに、不意に明るい声がかかった。   避難していた戦士たちの家族だ。  魔神との戦いの終わりを察して先んじて戻ってきたようだった。  彼らの顔を見るなり、落ち込んでいた戦士たちの表情にぱっと光が宿る。  戦士たちは皆妻子に駆け寄り、再会を喜び合った。 「………」  もちろんその中には、夫を喪い悲しむ声もある。  銀狼は一族の王として、そのすべてに耳を傾けなければならなかったが、 「狼王様!」 「む」  元気な声と共に駆け寄ってきたのは、豹と猫女の夫婦だった。  猫女の腕の中にはあの赤子が抱かれており、いつのまにやら咳も止まっている。  一瞬息が止まっているのかと心配した狼王だったが、近づいて顔を検めるとはしばみ色の瞳がくるりとこちらを見てきた。  どうやら回復したらしい。若い夫婦は揃って王に頭を下げた。 「この通り、何とか元気になりました。なんとお礼を言ったらいいか」 「王が俺に薬を取りに行かせてくれたおかげです。本当にありがとうございます」  もっとよく顔を見てやってほしいと、猫女が我が子を王の前に差し出してきた。  守り抜いた小さな命。  狼王がじっと見つめていると、赤子は何を思ったかにこりと笑った。  それを見た狼の口元も、自然と緩む。 「……何のために戦うのか、わかっているつもりであったが」  狼王は自らの民を見渡す。  笑う者、泣く者、表情は皆様々だったが、その全ては命あるが故だ。  彼らの顔を順に見て、最後にもう一度赤子に視線を戻した。  赤子はまだ笑っている。  狼の顔が好きなのか、小さな手で何度も鼻先に触れてくる。  ささやかな温もりを確かに感じながら、狼王は目を細めた。 「全てがこの笑顔のためならば、ワシも戦士もまだ戦っていけそうじゃよ。なぁ、皆」  素直に笑いながら、あるいはしゃくりあげながら、獣たちの元気な返事が森の廃墟に響いた。        人間があり、人間でないものがあるこの世界。  多くの物語が人間を主役とし、そして主役たる人間は得てして異種族を悪とし排除しようとするものだ。  幻想の世界において、そんな物語の主人公は『勇者』と呼ばれ、それはこの『大陸』にも存在する。    獣族たちが赤子を守った戦いから、いくつもの季節が鳴かれた。  人間が住まう『王国』の中心地。その王が住まう王宮。  そこでは一人の少年が旅立ちの時を迎えようとしていた。 「さぁ、行け勇者よ。その力で魔界の『魔物』どもを蹴散らし、魔王の首を取ってくるのだ。この王国の安寧のために」 「……御意のままに」  見た目十歳くらいの幼い少年は、しかし大人と変わらぬ長剣を背負って玉座の間を後にした。  王宮の階下に降り、正門を抜け馬を駆り草原を遥か西へ。  やがて国境の砦を抜けて、少年は魔界の入り口に差し掛かった。    森の中のざわめきは、魔族の誰もにその訪れを伝えた。  勇者が魔界に現れた。  魔王の首を取りにやってきた、と。  その知らせは勿論あの一家にも、その家長たる豹の戦士にも届いていた。 「……お父さん、どこに行くの?」 「うん? それはね」  10歳になった娘の言葉に豹は作り笑いを浮かべ、猫女は額に汗を浮かべていた。  獣族の領地は魔界でも最も王国に近い。  それ故に最も早く報せは届き、住民たちはその訪れに向けて動き出していた。    勇者の戦いは、この獣族の領地から始まる――。
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