10人が本棚に入れています
本棚に追加
蝉の声と線香の香りに、夏の思い出が蘇る。目を閉じると、懐かしい風鈴の音が聞こえて来る様だ。
やがて蟻がひまわりの茎を登り、ようやく花に辿り着く頃、大好きな彼がバケツを持って、走って帰って来た。
彼は息を切らして私の所へ来ると、私を見つめて急に真顔になった。そして……。
「ごめん、忘れてた」
そう言うと、彼はいきなり私に水を掛けて来た。
「冷たい! もう、そんなに掛けないで!」
そんな私の声にもお構いなく、彼は水を掛けて来る。悪戯が好きな彼らしい振る舞いに、童心がよみがえる。
とはいえ季節は真夏の八月、あっという間に乾いた水は水蒸気となって空に消えて行った。
水遊びを終えた後、彼はドロップ飴の缶をポケットから出して、一粒頬張った。緑色の甘いキャンディを頬張った時の幸せそうな顔に、私は微笑んだ。
すると彼は、ドロップ飴の缶をカラカラと鳴らして、手の平に真っ赤なキャンディを一粒出した。
「ありがとう。覚えていたんだね!」
私がそう言って手を差し出したのに、彼はそのまま私の好きなイチゴ味のキャンディを、頬張ってしまった。
「もう、それ私の好きなやつ!」
悪戯好きな彼は、何も聞こえない素振りでキャンディを舐めている。
その後、彼はしばらくキャンディを二つ頬に頬張ったまま、黙って私を見つめていた。
私は必死に、「おーい」「どうしたの?」と話し掛けるも、彼は変わらず真っ直ぐ私を見つめている。
改めて見る彼の表情は、やはり大人びていた。その表情を見続けていると、不思議な寂しさが込み上げて来る。
やがて、遠くから彼を迎えに来る声が聞こえて来た。お別れの時間が来たみたいだ。
でも、彼は私の側に居てくれる。聞こえないフリをしてくれていた。
その優しさに私の胸は締め付けられる。
「呼んでるよ? もう行かなくちゃ。ほら、みんなが待ってるよ」
心の中ではそう言えるのに、言葉には出来ない。言葉にすると、もう彼には会えない様な、そんな不安が私を包み込む。
──もう彼には届かない。私の声も、私の儚い想いも。
徐々に彼を呼ぶ声が近づいて来る。彼は寂しそうに下を向いた。
「そんな顔しないで。今年もありがとう。素敵な夏の思い出が出来たよ」
眩しい日差しと蝉の声。大好きな彼と、カラカラと鳴るドロップ飴の缶の音。
花筒に立てられたひまわりと、優しい線香の香り。
彼は下を向いたまま、私に手を合わせると、家族の声のする方へ歩いて行った。
「そう言えば、イチゴ味って、どんな味だったかな……」
遠ざかって行く、カラカラと鳴る夏の音を胸に、私は再び永い眠りに着いた。
最初のコメントを投稿しよう!