0人が本棚に入れています
本棚に追加
夜空の海に星が煌めく。浮かぶ月は半分くらいだ。
私は長い間それらを眺めていた。
1人崖の上。草も木も眠り優しい風が時折吹き抜ける。
「牛の目の星は見えるかな?」
振り向くといつの間にか彼はそこに立っていた。
「星の帯を眺めていたのよ。星の名前とかは私は興味無い。」
彼は笑って月を見上げた。
「もうすぐ新月だね。祭司の練習はしたのかい?」
「まぁまぁ。」
と素っ気なく答える。
祭司の練習に疲れていることを察してくれたのだろう。昔からいっしょにいるイバにはおみとおしだった。それ以上はその事について言ってはこなかった。
「星の帯といえば、面白い絵本をまた貰ったよ。」
イバが思い出したかのように言う。
「遠い島国の本らしい。星の帯に関するものだと思う。」
「ふーん。それで?」
私の返事は相変わらずだ。
「牛飼いと糸織の話なんだ。多分ね。2人は男女で愛し合ってた。でも、お父さんみたいな人に星の帯で引き離されてしまうんだ。」
彼は楽しそうに続ける。
「お父さんは2人の関係に反対だったのかもね。で、引き離された2人のはとても悲しんだ。そしたら鳥が飛んできて星の帯を渡れるようにしたんだ。2人は会えて晴れてハッピーエンドという感じさ。多分。」
「多分とか、みたいなとかが多いのはいつもの事ね。」
私が指摘すると
「しょうがないだろう。俺たちは文字が読めないんだから。」
と答えた。
もっともだ。私たちは字が読めない。だからたまに他の島から本が入ってくるが内容を絵から推察しなければならない。
それを分かっていてか私たちとの数少ない交易相手の商人も絵が多い本を持ってきてくれる。
全面字だらけの本をもらったことがあるがそれはすぐに薪になった。
絵本の解読はこの島の子供たちの大きな楽しみのひとつになっている。
他の文化が入るのを最初は大人たちは快く思っていなかったが、字が読めないので問題無いと許してくれた。
イバは絵本の解読が特に好きだ。
この間は赤い布を被った女の子の話だった。
化け物を魔術で倒して食べられた女の子やおばあさんを助けるという内容だ。
「遠い島国でも見えてる星空は同じなのかもしれないね」
イバはそう言った。
「イバなら遠い島国まで泳いで行けるんじゃないかしら?泳ぎ得意でしょ。見てきたら?」
と私が言うと
無理無理と彼はわらった。
話しているうちに夜が深まる。風が草木を揺らす。
「そろそろ寝たほうが良いよ。夜更かしは体に悪い。」
と言われた。
それは間違いないのだが、明日が来るのが憂鬱だ。毎日の朝から晩までの練習はさすがにつらい。
まぁそれでも明日は来るのだが。イバもそれをわかって寝るように言っているのだろう。
「わかった。また明日ね、イバ。」
私は微笑みかける。
イバも笑って答えてくれた。
翌朝、日が登ってすぐに起こされた。眠い目を擦って起きる。今日も祭司の練習のため長老の元へ向かう。
長老は椅子に腰掛けていた。
私の練習を見るために新しく作った椅子はもうかなり使い込まれた雰囲気が出ていた。
「おはようございます。長老。今日もよろしくお願いします。」
私は膝をついて言う。
長老が口を開いた。
「いや、練習はしない。今日は祭に必要な物を森から取ってきてもらう。鹿の角、ウーロの実5個、鳥のくちばしだ。さすがに1人では無理だから人を連れて行け。だが、なるべく少ない方が良い。誰を望む?」
「イバで。」
私は即答していた。
長老は少し困ったように頷く。
「お前たちはいつも一緒だな。まぁイバならば1人でも大丈夫だろう。」
私は少し胸が踊る。練習が無いからというのもあるが、イバと森へ行くのは久しぶりだからだ。
すぐにイバは呼び出され私たちは森へ向かった。
森は木々が生い茂り、私たちを包んでいる。森はとても入り組んでいて、最初こそ迷ってしまいそうになった。
でも、今では山の至る所を覚えたので迷うことなどおそらく無いだろう。
「まずはウーロの実を取りに行こうか。少し探せばすぐに見つかるはずだ。」
イバはそうして草をかき分けて進む。
右手には長く、鈍く光る槍が握られていた。
森は進むにつれ、どんどん深くなる。
それでもまるで自分の家の中を歩くように少しの迷いもなく私たちは行く。
木、木、木。緑が視界を染め、同じような景色が連続する。
「ディアン、久しぶりだね。森の中に2人で行くのは。」
イバが言う。
「そうね。ずっと私は儀式の練習だったもの。誰か同い年くらいの人と一緒にいることもだいぶ久しぶりよ。」
私は思わず文句を言ってしまう。
そして同時に今まで溜まっていたイライラが溢れ出てくる。抑えることはできなかった。
「なんで私が祭司に選ばれたの……。私だって友達と遊びたかったし、他にやりたいこともあった……。こんなことはしたくなかった。」
目に涙が溜まる。視界が霞む。
イバは立ち止まって振り返っていた。
何も言わずにこちらへ来る。
そして私を抱きしめた。
誰かの優しさを久しぶりに感じた。ありがたかった。いつまでもそうしていたかった。
木、木、木。緑の景色は変わることは無い。だがその中に1つ、赤があるのに気づくのはそう難しいことではなかった。
「あった!イバ!」
私は叫んだ。
「ようやく見つけたよ……。思ったより大変だったな。」
イバも笑って言う。
私たちはもう5つもウーロの実の木を見つけたのだが実が全て取り尽くされていた。
そんな訳でウーロ実を見つけたときの喜びは大かった。
実を5つ取って持ってきた布袋に入れる。
拳大の実が5つもあるとけっこうな荷物になった。
「ようやく1つだ。次は鹿を取りに行こう。」
イバは荷物を担いで笑った。
私たちは森を進む。
「なかなか鹿は見つからないわね。」
「そうだね。もうそろそろ見つかってもいい頃だと思うんだけど。」
イバが答える。
「そもそも最近は狩りが多いからね。鹿の数が少な……。」
イバが言葉を止めて素早く右を向く。
「イバ?どうしたの?」
私は何が何だか分からない。
「足音が聞こえる。走ってるような音だ。しかも沢山!」
イバは横を睨み続けて言った。
草を揺らす音が私にも聞こえてきた。
イバは槍を握りしめる。袋を私に投げてきた。袋が地面に落ちる。
私は慌ててそれを拾った。
右手を見ると鹿が1匹すぐそこまで来ていた。すごい速さで走っている。
草を踏み潰し、枝を折る音が激しさを増す。
イバが私の前に出た。鹿はもう私たちから20歩ほとの近さだ。
イバが1歩踏み込んだ。
直後、鹿はその場に倒れ込んだ
どうして?
その理由はすぐにわかった。鹿の肩には1匹の山犬が噛み付いていた。
どこからかもう1匹が出てきて首に噛み付く。
鹿はじたばたともがく。しかし直ぐに動かなくなった。
さらに2匹の山犬が奥から出てきた。全部で5匹だ。
山犬たちはすぐにこちらに気づいた。
とても興奮している様子だった。
「ディアン、後ろに下がって」
イバが短く言う。
直後、3匹の山犬がこちらに駆け出した。
左右に1匹ずつ、真ん中に1匹と分かれて来る。
イバは前へ向かう。
一瞬で3歩を詰め、真ん中の山犬の脳天に槍を突き刺す。
その後左の山犬に向かって槍を振り、刺さっていた山犬を飛ばした。
見事命中し、左の山犬が吹き飛ぶ。
イバが素早く右を振り向いた。
右の山犬は既に私を通り過ぎ、後ろに回っていた。
イバは持っていた槍を投げる。
飛んだ槍は山犬の胴体を貫いた。
あと2匹残っている。
イバは前に駆け出した。
山犬に傷つけられると病気になってしまう。
このままではとても危ない!
「イバ!」
私は叫んでいた。
イバは振り返ることなく間合いを詰める。
1匹がイバに飛びかかった。
イバはそれを拳で突き上げる。山犬が空中に舞う。そして落ちてくるタイミングで思い切り蹴り飛ばした。
山犬は吹き飛び、木にすごい音をたててぶつかった。
少しの間もなく続けてもう1匹に襲いかかる。
山犬の脳天めがけて拳を振り下ろした。
鈍い音がここまで聞こえた。一撃で山犬は倒れた。
だがイバの背後にはさらにもう1匹の山犬が迫っていた。
左に回り込もうとしていたやつだ。
やばい!
もう山犬は飛びかかっていた。
間に合わない!
思わず目を閉じた。
しかしイバの声は聞こえてこない。
目を開けるとイバは左手で山犬の首を掴んでいた。
骨が折れる音がした。
山犬はもう動かなかった。
「何匹かは気絶しているだけだけど暫くは動けないだろう。」
イバが布で手を拭きながら言った。
「それにしても、数が少なくて助かったよ。これ以上多かったら危なかったね。」
「1人で山犬の群れを全滅させる人なんか聞いたことが無いわ。イバには神様が宿っているんじゃない?」
私は笑った。
イバも笑う。
「じゃあ鹿探しに行こうか。この1匹がいたのだから近くにいるかもしれない。」
荷物を持ったイバが言った。
「その必要は無いわ。」
私が言った。
イバは怪訝な顔をしている。
「まさかその死体の角を持ち帰るつもりかい?それは駄目だよ。山犬が狩った鹿を祭に使うなんて。」
イバがそう言うのも無理は無い。
山犬が殺した鹿の角を祭に捧げるなど、神への冒涜も甚だしい。
「私はこんな祭なんか台無しにしてやりたいのよ。伝統、文化、民族。全てくだらない。これは私の小さな復讐よ。」
私の思いを再び吐き出す。
イバは悲しそうにこちらを見ていた。
陽が雲に隠れ、辺りは少し暗くなった。
「僕は君の味方でいたい。でも僕でも神の怒りに触れたらどうしようも無いんだ。」
そんなことは分かっている。
私だって神を信じ、神への感謝を忘れたことは1度も無い。
「もちろん私も神様を信じる。でも私の自由を奪った伝統とかいうものは私が穢さなければいけないの。私は許せないの。結果私が神様から罰を与えられても私は満足よ。」
そう。私は許せなかった。
私の自由を奪った、私からイバとの、他の友との時を奪った、思い出を奪った古臭い教えが許せなかったのだ。
子供な考えだ。
私の中には幼稚な怒りと復讐心が燃えていた。
イバはもう何も言ってはこなかった。
ただ、「次は鳥を探そう。」
とだけ言った。
イバは石を投げてすぐに鳥を仕留めた。
帰り道私たちが話すことは無かった。
深い森は来た時よりもさらに複雑さを増して見えた。
イバについていかなければ呑み込まれていたかもしれない。
草が足に絡みつく。
不快な感覚が1歩進むごとに積もった。
森の出口が見えた頃、イバが振り返った。
「もし君が神の怒りに触れても僕が共に罰を受けよう。もし村が君を責め、君が1人になっても僕が寄り添おう。僕は君の味方だ。ディアン。」
そして再び抱きついてきた。
私は何故か何も感じることが出来なかった。
私の心は混乱していたのだろう。
イバの言葉は嬉しかった。
それでもまだ私の中に炎はあった。
2つの真逆の感情は綺麗に釣り合った。
私は返事もすることができなかった。
新月の日がきた。
生憎雲は多い。確かにここ最近は雨が多かった。
しかし祭の日程に変更は無い。
私は朝から準備で大忙しで、息付く暇も無かった。
私たちが取ってきた道具は綺麗に机に並べられていた。
丁寧に扱われる穢れた神具を見て私は笑みを浮かべただろうか。
準備は着々と進められた。
私は身を清める為に川へ向かった。
2日前に降った雨の影響か、川の水はいつもより少し多かった。
そして祭のための衣装を纏う。豪華な装飾品も今日だけは特別に付けることを許される。
村の飾り付けも進められた。
村の家々や道などあらゆるところが祭の為に飾り付けられる。
人々も皆祭を楽しみにしている。
道での立ち話や子供たちの声はいつもより楽しげで、大きな声に聞こえた。
辺りが暗くなってきた。
もうすぐ日が沈む。
雲が多いせいか今日はいつもより暗く感じた。
祭が始まる。
私は長老の家へ入った。
長老の家は広く、部屋は多い。
その中の1つに祭のときしか開かれない部屋があった。
飾り付けが多く、とても綺麗な部屋だ。蝋燭が灯され、お香が焚かれている。
部屋の中は捧げものが置かれた机が1つと燭台だけだった。
私は机の前に座り、目を閉じる。
祭司はここでしばらく祈りを捧げる決まりだ。
村の人々は今頃美味しい食べ物を食べ、楽しく談笑をしているだろうか。
無意識にそんなことを考えてしまっていた。
祈りが終わり、私は外に出て、広場に向かった。
広場は円形に村の人々が座っており、踊りが始まるのを待っている。人の円の周りには火が焚かれており、真ん中には少し大きめの火があった。
これから踊りを捧げる。
この村の繁栄、神への感謝、作物の豊作、村人の健康、様々な思いを込めてこの踊りは捧げられる。
何度も練習した踊りだ。間違えることは無いだろうが、少し緊張した。
踊りが始まった。村の人々は私を囲み、祈りを捧げる。
私は練習通りに完璧に踊りをこなす。
神への感謝を込めて丁寧に、美しく舞ったつもりだ。
そこに雨が降り始めた。
最初は小雨だった。みんな気にしない程度の強さだった。
しかし、すぐに強さを増し、大粒の雨が降り注いだ。
焚いていた火が消え始め、辺りは闇が深くなった。
人々は驚いて声を上げていた。
しかし踊りは続く。祭の日程に変更は無い。
私は何が起こってもここで踊り続ける。
それが私の使命だった。
私の心は少しも動かず、踊りだけに集中する。
どれくらい経っただろうか。長い時間踊り続け、踊りが終盤に入ったとき、1人の中年の男が長老の元へ駆け寄った。
話し声が大きかったので私にも聞こえた。
川が氾濫してとても危険らしい。若い男を5人ほど連れて、川を見張らせたい。
という話だった。
長老は分かったと答え、若い男を5人連れて来させた。
その中にイバもいた。
彼らは川のある山の方へ歩いて行った。
暗闇の中に彼らの姿はすぐに見えなくなった。
踊りは終盤に入ったと言ってもそれでも残りは結構長い。
雨の中での踊りは私の体力を大きく削った。
だか私は動きを止めることは無い。
私は昔の私を思い出した。
最初はすぐに疲れて動けなくなってしまった。
踊りを最後まで続けることなんて到底できなかった。
私は毎日練習を積み、身体を、体力を、心を鍛え、最後まで舞うことができるようになった。
それには多くの時間を費やしたのだが。
そんなことを考えてたとき。
大きな音が聞こえた。山の方からだった。
土砂崩れでも起こったのだろうか。
少しの不安を覚えた。
踊りはもうすぐ終わるところまできていた。
ようやく終わる。
雨が降るという小さなトラブルはあったが、無事に終えることができそうだ。
そこに慌てた様子で走ってくる若い男がいた。
何?
嫌な予感がした。
その男はイバと一緒に川へ向かった若い男のうちの1人だった。
彼は長老に駆け寄る。
そして信じられないことを口にした。
川の方で土石流が起こったらしい。
こちら側には影響は無さそうだが、見張りに着いていた男たちは自分以外全員流されたと言ったのだ。
え?
みんな流された?
「イバ!」
私は走り出していた。
「ディアン!祭の最中だぞ!」
後ろから長老たちが呼ぶ声が聞こえる。
しかし私は構わなかった。
川の方へ駆ける。
疲れなど感じなかった。
雨が顔に当たり、前を向くのも辛い。
それでも前を向いて走る。
私の身体にこびり付く装飾品は邪魔でしかなかった。私は走りながら無理やりそれらを外した。
上手く取れないものは紐を引きちぎった。
川への道のりはとても長く感じた。
ようやく着いたが、川に元の面影は無かった。
水量は遥かに増し、流れもいつもよりとても速かった。
「イバ!どこ!返事をして!」
私はイバを呼んだ。
呼び続けた。
それでも返事は無かった。
川の流れの轟音はすぐに私の声を、周囲の音をかき消す。
こんなのに呑み込まれて助かる人間がいるとは思えなかった。
私は膝から崩れ落ち、ただ泣くしかできなかった。
私が帰ると祭は終わっていた。
長老たちからはとても非難された。
私はもう一生祭司にはしないと言われた。
しかしどうでもよかった。
イバを失った絶望は大きすぎた。
家に帰り、私は濡れた身体のまま深い悲しみにくれた。
どうしてイバが?
私の大切な物を奪うのが私への罰だと言うのか。
山犬の取った鹿の角を捧げたから神様の怒りに触れてしまったのだろう。
なんで私の自己満足のためにこんなことをしてしまったのか。
私は今更ながら神様へ懺悔した。
許しが貰えるとは思っていなかった。
それでもせずにはいられなかった。それほどに私の後悔は深かった。
雨は弱まることなく降り続いていた。
あれから日が二百回は登り、沈んだ。
私は崖の上にいた。
あの祭の日から私の居場所はずっとここになっていた。
私の居場所は村には無かった。
踊りを途中で止めて祭を台無しにしてしまったのだ。当然だ。
ここにいて何もせず、海や山を眺める。
それが私の1日になっていた。
崖から見える海は輝いていた。交易船がこちらに向かっているのが見える。
最近は交易の数が増えたらしい。よく船を見る気がする。
私は特に何もせず、今日もずっとここにいた。
夜が来た。
今日は新月だった。
星が美しく輝いていた。
星の帯が見える。
イバとここで話をしたことを思い出した。
涙が溢れ出てくる。
枯れ尽くしたと思っていた涙はまだ残っていた。
あの日からは悲しみしか感じてこなかった。
しかし今は懐かしさを感じていた。
私は少し笑う。
そして立ち上がった。
私は踊りを始めた。あの祭で捧げた舞いだ。
イバとの思い出を振り返る。彼との一時は楽しかった。私は彼を愛していた。
私は涙を流しながらも笑って舞い続ける。
星に祈りを込めて。
イバとの出会いに心からの感謝をこめて。
「牛の目の星は見えるかな?」
鳥の羽ばたきが聞こえた気がした。
最初のコメントを投稿しよう!