デタラメだもの

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デタラメだもの

75a2bb55-33c7-45d9-85fe-dd486062e5cd   デタラメとはどういう意味だろうか。辞書で調べてみると、【根拠がないこと。首尾一貫しないこと。いいかげんなこと。また、そのさまや、そのような言動】だそうだ。要するに、適当だったりポンコツだったりいい加減だったりする。こんな風に思えてこないだろうか。そう。それはまるで、人間そのものだって。  相田みつをさんが謳う『にんげんだもの』。人は何度もその言葉に救われ、苦難や苦境に立たされても、『にんげんだもの』のひと言に、人としての弱さを認め、自分の情けなさとうまく付き合ってくることができた。自分を責めることをやめ、自らが課した重荷や重圧から解放され、スルリと躱せた瞬間は人生において実に多いはず。  居酒屋などでたらふくお酒を飲んだ折、尿意を催した挙げ句、トイレに駆け込むと、ふと正面に『にんげんだもの』が額装して飾られてある。それを目にすると、嗚呼、生きてていいんだ、とどこか放免された気にもなる。それほどに「にんげんだもの」という言葉には、万人を許すパワーがある。その言葉さえあれば、人は生きていけると思っていた。がしかし、今の世の中、どうだろうか?  時に暗い未来が語られることが多い。おいおい、若者にとって素晴らしい未来はやってこないのか、と。中年にとって生きがいある未来は訪れないのか、と。日本の未来は――と聞けば、やけにネガティブなフレーズばかりが立ち並ぶぞ。おいおい。日本の将来は、それほどにハードモードなのかい? イージーモードで生きることは不可能なのかい? どうやら、そうみたいです。ハードモードらしいっす。  息苦しさが確約されたそんな世の中で生き抜いていくためには、『にんげんだもの』がどれだけあっても足りないじゃあないの。どれだけ自分を許そうが、どれだけ情けない自分を認めようが、世の中がそんなにもハードモードになるんじゃ、気楽に生きていけないじゃあないの。じゃあ、どうすればいいの?  そこで思ったわけです。これからの時代、「デタラメ力」が必要なんじゃないだろうか、と。「デタラメ精神」を持ってして、ハードモードな世の中を渡っていくべきだ、と。  もう一度、デタラメという言葉を辞書で引いてみよう。【根拠がないこと。首尾一貫しないこと。いいかげんなこと。また、そのさまや、そのような言動】。なるほど、これなら何とか生きていけそうな気がする。そう感じるのは、自分だけじゃないはずだ。  先日、とある小説投稿サイトに、自身の作品を投稿してやろうと企てた。約一年前に登場したその小説投稿サイト。鳴り物入りでデビューしたそのサイトは瞬く間に注目を集め、多くの人が参加したため、「ははん、これは随分とメジャーなサイトですなぁ。ここに乗っかってしまうと、いかにも流行り物が好きですねんと主張しているよう。ムーブメントが落ち着くまで、暫く様子を見てみようじゃないか」と、冷静にその動向を見守ってきた。いや、その実、忙しさにかまけて、参加するタイミングを逸してきた。  そして先日、「機は熟した!」と大声で叫び、心の中でその小説投稿サイトへの参加に向けての決意表明を打ち立てる。戦略的に、多くの読者に自身の作品を届けられる勝算を導き出せたからだ。いや、その実、少しだけ時間が空いたから、取り組むことができそうな気がしたからだ。  で、満を持してアプリケーションを立ち上げ、サイトにアクセスする。「我、掌編小説の覇者なり!」などと咆哮しながら、戦国武将さながらの形相で投稿を試みようとした。するとどうだろうか。画面に表示されていたのは、『サービス終了のお知らせ』だった。  え? うそやん? リリースされてから、まだ約一年よ。付き合いたてのカップルなら、まだお互いのことを、それほど深くは知り得ないくらいの年月よ。一年で何がわかるの? 優しい彼の性格が好きで付き合ったけども、実は誰にでも(・・・・)優しい性格をしてるかもしれないじゃあないの。容姿端麗な彼女と付き合ったけども、実は掃除嫌いな性格で、部屋がめちゃくちゃ汚い人かもしれないじゃあないの。そういうのって、付き合いながら知っていくもんじゃないの。お互いのダメなところは、付き合っていくうちに二人の色で染めていくもんじゃないの。恋愛ってそういうもんじゃないの――?  ともかく、勝算を見出したその小説投稿サイトは、サービスを終了するらしい。物書きがああだこうだ言ったところで、事態が変わることはない。つまりは、それがビジネス。資本主義社会。営利団体。利益追求。もちろん、サービスを提供する企業側の判断だから仕方がない。それを利用させてもらい、作品を世に届ける他ない身分なのだから納得せざるを得ない。しかしだ。こんな風に思わせてもらいたいわけだ。 ――めっちゃ適当やん。  服屋に行けば、SとMとXLのサイズは大量にあるのに、希望するLサイズだけが売り切れていた。日本人の体型の平均的なサイズがLサイズだとしたら、Lサイズに注力して大量に発注すればいいやん。発注担当、誰なん?  スーパーマーケットに行き、パックの飲料を購入したところ、パックに備え付けのストローがセットされていなかった。いやいや、どうやって飲めばいいのよ。  とっくの昔に連載が終了した漫画を、ふと思い出し、読んでみたくなり、書店に買いにいくと、なぜか一巻だけが売り切れていた。誰なのよ、自分と同じバイオリズムで急にこの漫画を思い出し、読み始めようと決心し、本屋に赴いた人は。もはや思考がシンクロしてるじゃあないの。  ほら。世の中は適当で回っている。デタラメで回っている。『にんげんだもの』と、情けない自分を認めてあげることも大切なことだ。しかし、これほどまでに世の中が適当に回ってるんだし、もう、『デタラメだもの』でいいじゃない。デタラメに生きたっていいじゃない。  そんな心持ちで綴るエッセイ。世にいうエッセイと一線を画すのは、あちらこちらに妄想が織り交ぜられるということ。何もかもが真実ではないし、あり得ない部分が真実かもしれない。物書きがその全てを真正直に曝け出す必要はないと思っているし、曝け出したとて、そこに何の価値があろうか。ミッキーマウスの中身がどんな人間かなんて、気にせずみんな、ミッキーマウスを愛しているよね。  エッセイも作品だしエンターテイメント。随筆を愉快にする方法は大きくふたつある。  ひとつ目は、随筆を愉快にするために、愉快な人生を歩むこと。ふたつ目は、随筆を愉快にするために、愉快な妄想を描くこと。  もしかすると後者は、エッセイとして禁じ手なのかもしれない。しかし、そんなことはこの際、気にしないでおこう。だって、表現なんて自由じゃない。好きにやればいいじゃない。だって、世の中は、こんなにもデタラメなんだもの。
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