プロローグ

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プロローグ

「早乙女くんはさ、どうして今の研究をしようと思ったの?」  研究の話をすると、よくそんなことを聞かれる。  それに対する僕の回答はいつも同じだ。 「恋人のためです」  僕がそう言うと、相手は訝しそうに目を細め、僕の足元から頭へと視線を動かす。  そして、相手の表情が語るのだ。 「そのボロボロのサンダルはなんだ。ジーパンに開いた穴はなんだ。シャツについた色とりどりの染みはなんだ。無精髭や、伸びきった髪は――」  つまり、「お前なんかに恋人がいるはずないだろう」と言ってくる。 「あ、元恋人です」  僕がそう付け加えると、相手は「そうだろうとも」と得意そうな顔をする。  それを見て、僕は情けなく笑うのだ。        ◆◇◆ 「しょーもな」  同僚の鈴木が、本当に心底つまらなさそうな顔をして言った。「今、研究の理由はなんて答えてんの?」と、昼食中に聞いてきたのはそっちだろう。せっかく説明してやったのに、その一言で斬り捨てるのは酷い。  無神経な鈴木の物言いに、少し苛立ちを覚える。逡巡し、僕はすすろうとしていた蕎麦を、再び椀に戻した。  彼女は学生の頃から、こうやってすぐ人の気持ちに斬りかかる。「直せ」と、これまでも何度か言ったのだが、「前世が武士だから無理でござる」と言う。前世なんてこれっぽちも信じていないくせに。  初めて鈴木と会った学会でもそうだ。ポスターを使った僕の研究発表中、全速力で奴は僕の所へ飛んできた。「こんな結果信じられません」と、発表時間だった二時間もの間、ずっと研究の粗探しをされた。結局、けちょんけちょんにされ、僕はしばらく学会恐怖症になった。  以来の腐れ縁。今では同じ国立研究所の同僚である。  僕は頭を掻き、ふと椀を見て溜め息を吐く。  天ぷらだ。  僕の彼女は、汁の染みたブヨブヨの天ぷらが好きだった。僕は苦手だったから、いつも彼女にあげていたけど、今ではそれも愛おしい。  しかし何故、今僕の目の前にいるのはあの子でなく、鈴木なのだ。  僕がアホなことを言っても、きっとあの子なら、僕の気持ちも考え、「どうしてそんなことするの?」って優しく聞いてくれるのに。  すると、黙っている僕に、鈴木は更なる追い討ちを仕掛ける。 「本当にアホだね。最初から、『元カノとヨリを戻したくてー』って言えばいいのに」  下手な僕の物真似をして彼女は言う。どうせいつもの適当な挑発だ。その証拠に鈴木は、僕の回答を気にする様子もなくラーメンを豪快にすすり、眼鏡を曇らせていた。  意地の悪い同僚に呆れつつも、僕は一つ、どうしても訂正をしなければならなかった。 「言っておくけど元カノじゃない。冷却期間中なだけだ」 「あなたの中だけではね。自分から元カノって言いたくないんだもんねー?」  図星。すぐに言い返す言葉は出てこなかった。  でもそんなこと、わざわざ言われなくても分かっている。  もう五年も前のこと。僕は十年連れ添った彼女にフラれた。もう、あの子とは恋人ではない。それが客観的な事実だ。  でも、僕だけはそれを認めてはならない。諦めてはならない。大人になってはならない。あの記憶さえ消せば、あの子は僕の元に帰って来るはずなのだ。 「放っといてくれよ。今の研究が認められれば、全て上手くいく」 「全て、ねえ?」  含みを持った言い方で、鈴木は僕の気を逆撫でる。 「あの男の記憶さえ消せば、あの子は開放されるんだ」  思わず語気が強くなっていた。あの子を縛るあの記憶さえ消せれば。そう思い続けて五年も経ってしまった。  脳神経タンパク質の制御機構を分子レベルで解明し、一躍分野の有名人になった。そして、その知見を応用した記憶消去法も、マウスを使った実証に成功している。何も難しいことはない。要は、記憶媒体である脳神経を部分的に破壊してやればいい。  あとは、人体での臨床試験を待つのみだが、ここが大きなハードルだった。倫理や安全性の面から、多くの審査を潜り抜けねばならない。一般的な薬の何倍もの手続きが必要となる。  そのことに、近頃は珍しく苛立っていた。些細なことで腹が立つ。 「記憶を消しても、人の感情まで操作は出来ないよ」  鈴木はこちらを見ず、麺のなくなったスープを箸でかき回しながら言った。
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