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金曜日の夜、雅知は薫を連れて、高級住宅街の中にある、こじんまりとしたフランス料理屋を訪れた。そこは薫のお気に入りの店で、結婚前から数えたら、何度通ったか分からない。美味しそうに料理を頬張る薫の顔を見るだけで、雅知はいつも多幸感に包まれた。
「ここ、久しぶりね」
席に着くと、薫が微笑んだ。不妊治療の話をしてから、わずかに感じていたギクシャクは、今は感じられなかった。薫とワイングラスを合わせると、雅知は赤ワインを口に含んだ。
楽しいひとときだった。薫はよく笑いよく話した。薫が笑顔ならばそれでいい。
薫の幸せ、それが、雅知の幸せだ。
「あのさ」
メインも終わり、食後のコーヒーとプティフールが並べられたところで、雅知は話を切り出した。
一週間悩み抜き、自分は男性不妊だと薫に伝えることにした。このままでは、薫の中で、子どもが欲しいと思う気持ちが募る一方だろう。
でも、雅知といては自然妊娠は望めない。薫の身体と心に負担をかけるであろう、人工授精も体外受精もさせたくはなかった。
そうとなれば、答えは一つだ。
可愛らしい焼き菓子に目を輝かせていた薫が、顔を上げた。よほど雅知の表情が、この場にそぐわなかったのだろう。眉をひそめると、訝しげな視線を雅知に投げた。
「何?」
「うん。食べながら聞いて。俺ね、精子無力症だった」
そのことばの意味を知らなかったのかもしれない。薫は首をかしげていた。
「男性不妊。つまり、子どもができないってことだよ」
薫の指先から、滑るように銀製のフォークが落ちた。料理店には珍しい、カーペットが敷き詰められた床にフォークが落ちるさまは、美しかった。照明の光が、磨かれた白銀の体に反射され、流れ落ちる清水のように見えた。
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