3.転機

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「あら、いいじゃない。今どき、家に籠もってるなんてナンセンスよ、もったいないじゃない。万知も働くといいわ」  凪のように見えて、荒波の激しい大時化だった万知と陽治の間に、颯爽と助け船を出したのは母だった。 「ねぇ、陽治さん、この子はね、昔からじっとしていられなくて、もともと専業主婦には向いていない性格なのよ」  母はそこから、落ち着きなかった万知の幼少時代の話をし始めた。家族で遊園地に行く約束をしていた日、大雨が降り中止になったのに、一人家を抜け出して遊園地に行こうとした、五歳のころの話。家遊びが苦手で、いつも男の子たちと虫取りやサッカーをしていた話。  陽治の怒りに油を注いでいたらどうしようと、万知が目を上げると、意外にも陽治は楽しそうにその話に耳を傾けていた。 「……じゃあ、万知も仕事を探してみる?」  陽治が、万知の願いを了承したように聞こえて、またしても万知は耳を疑った。 「いいの?」 「うん、いいよ。でも、条件をつけてもいい?」  条件という単語に、母も雅知も薫も興味津々といった様子で陽治に注目した。 「時間は夕方の五時までで、土日祝日は休むこと。あと、バスか徒歩で行ける範囲で探すこと」 「えー、なんか厳しくない。万知ちゃんかわいそう」   万知の肩を持ったのは薫だった。陽治の条件が気に入らないのか、思いきり顔をしかめている。 「厳しくないよ。俺は、万知が働いても二人の時間を大切にしたいんだ。それに、満員電車なんて乗せたら、それこそ万知がかわいそうだろう」  真顔で力説する陽治を見て、「姉さんは愛されてるね」と、雅知と母が顔を見合わせて笑った。  雅知のことばに万知は嬉しくなった。できる仕事は限られてくるし、編集者の仕事には戻れないが、それはどうでもいい。陽治は、万知を愛し万知を心配しているから、こんな条件をつけるのだ。  陽治が愛しているのは、万知だ。  だから、浮気なんて、見逃すことができる。  万知にとってこの食事会は、いい意味でも悪い意味でも、大きな転換点となった。
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