5.裂傷

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 平日の夕刻。これから帰宅するのだろう、雅知のようなスーツ姿のサラリーマンが多かったが、中にはサークルの集まりなのか、大学生のグループも多かった。  ここは繁華街だ。雅知の取引先は、繁華街の中に建つ新しいオフィスビルの中にあった。そうだ、思い出した。陽治の事務所は、ここから少し離れた住宅と低層のビルが多く建つ地域にある。ならばきっと、取引先に行きがてら駅にふたりで帰るところに違いない。  やはり、声をかけよう。後をつけるような真似は、薫にも申し訳ない。  改札に差し掛かったら声をかけよう、雅知は心に決めると、ふたりとの距離を僅かに縮めた。薫と陽治の間は、手の甲が触れそうで触れず、先ほどと変わらなかった。  地下鉄の駅に降りる階段の入口が見えた。当然階段を降りていくものだと思われたふたりは、そこを素通りした。そのまま真っ直ぐに歩いていく。  雅知はスーツのポケットからスマートフォンを出した。新着メールは、なかった。何か話しながら、陽治に時折笑顔を見せる薫を、雅知は後ろから見つめた。  薫も、取引先に一緒に行くのかもしれない。事務職でアルバイトの薫を、社長が取引先に連れて行くだろうか。  この先にあるものが何か、雅知は知っていた。坂を上がったところの角を曲がって、しばらく行けばいい。そんなに時間もかからない。  スマートフォンを握りしめる手のひらが、汗ばんできた。今までにないくらいのスピードで、鼓動が増していく。  ふたりは、角を曲がった。角を曲がってすぐに、陽治が薫の手を握った。  今どきのラブホテルは、いかがわしいネオンできらめいてはいない。それでも、一目見れば、ここがラブホテル街だと分かる。  口から飛び出しそうな心臓と、昼に食べたラーメンの消化残りを唾液と一緒に飲み込んだ。  手を繋いで、ふたりは奥へと進んでいく。ラブホテル街のメインストリートから外れたホテルの前で、陽治が握っていた薫の手を離した。離れた陽治の手が薫の腰にまわり、薫は陽治の肩に頭を寄せた。  キスができそうなほどに近い距離のふたりは、そのままホテルの中へと消えていった。  雅知は夢中で、スマートフォンにあるカメラアプリの撮影ボタンを押した。  呼吸をしているのに、胸が苦しくて苦しくて、まるで暗い海底の中に沈められているようだと、揺れて霞む誰もいないホテルの入口を見つめた。
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