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「薫」
雅知の唇から漏れたのは、溺愛してやまない愛妻、薫の名前だった。
「ケンカでもしたのかな」
目の前に転がる珍しいものに驚いた貫治の目が、大きく見開らかれていた。
「うん、そうだな。薫ちゃん、気が強いし、やり込められたんじゃないか。毎晩帰りが遅いみたいだしな、こいつ。そりゃ不満も溜まるだろう」
薫が雅知にベタ惚れなことも、翔太と貫治は知っていた。この珍しい光景は、犬も食わない夫婦げんかのせいなのだと、二人とも疑わなかったし、それ以上深くは考えなかった。
それよりも、眠りこけた雅知をどうするかのほうが、このときは重要に感じた。どうするか考えたところで、やるべきことは一つしかない。
「今夜は万知ちゃんと雅知に会えて、なかなかスペシャルな夜だったな」
「うん。僕も三人が来てくれて楽しかったよ。翔太、雅知を頼むね」
翔太は貫治の店で過ごす時間を早めに切り上げ、酔いつぶれた雅知をタクシーで家まで送ることにした。
「おう。また連絡する。お前も気をつけて帰れよ」
店の前、停車したタクシーに雅知を乗せて、貫治と拳をつき合わせると、翔太はタクシーに乗り込んだ。
走り出したタクシーの中、今日はいろいろあったと思いを巡らせながら、翔太は睡魔と戦った。
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