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猫のぬいぐるみ事件の話をしてからというもの、由香里の様子がどこか落ち着きがないように、万知の瞳に映った。
接客中はいつものしっかり者の由香里だが、ふと手が空いたとき、心ここにあらずといった感じで遠くを見ていることがあった。それは、ぼんやりではなく、何かが差し迫っているような険しい表情のときもあれば、悲しげに眉根を寄せているときもあった。
翔太の様子も心もちおかしいように思えた。若干ではあるが、よそよそしく感じるのだ。
何か変なことをしただろうか。いくら考えても、万知の頭に浮かぶのは猫のぬいぐるみ事件のことだけだった。
「万知、聞いてる?」
今朝は珍しく、陽治が早く起きてきた。平日に一緒に朝食をとるのは、久しぶりだった。それなのに、由香里のことを考えると、陽治との会話を楽しむことができない。陽治の話を右から左に聞き流す万知を見かねたのか、これもまた珍しく陽治が声を荒げた。
「聞いてなかった。ごめん、なんだっけ?」
「来週の万知の誕生日の話。その日は、大事な打ち合わせでどうしても早く帰れないから、今週末はどうかなって聞いてるんだよ」
呆れたような蔑むような目をしてるのだろう、その声色を聞いただけで、見なくても表情が分かるようだった。
いつものことだった。ケアレスミスとも言えないような些細な失念や、聞き落としがあると、万知を蔑むように見て諭すような説教が始まる。
そのたびに、万知の気持ちは萎縮して悲しい思いでいっぱいになった。陽治のことばは、万知を貶めるのに十分な威力を持っていた。
「前から言ってるけど、万知は人の話を半分で聞こうとするところがあるから。若いころはそれでもよかったかもしれないけど、年を取ったらそれじゃだめだよ。昔のようにチヤホヤされることも、もうないだろう?」
遠巻きに、「お前のようなおばさんを相手にする人間はもういない。お前一人では、社会でなんの役にも立たない」そう言われているような気がして、万知は体を強張らせた。
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