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弁当用の卵焼きを作りながら、万知はこめかみを押さえた。生理前なのだろうと思った。万知の作るたまご焼きは、だし巻きたまごではなく、砂糖を多めに入れた甘めのたまご焼きだ。万知の焼く甘めのたまご焼きは、陽治の大好物だった。
来月の誕生日で、万知は三十五歳になる。冬生まれの陽治よりも、少しだけ年上だ。俗にいうアラフォーを迎え、身体にもいろいろ変化があるだろう。
少しずつ、女として身体が変化していく。確実に老いへと向かっていく。
二人が結婚を決めたあと、陽治は、編集者として小さな出版社で働いていた万知に、仕事を辞めて家に入って欲しいと懇願した。編集の仕事に誇りを持ち、充実感と達成感を仕事に感じていた万知は、退職に躊躇した。
できるなら続けたかった。でも、安定したとはいえ、独立した陽治の仕事がとても大変そうなことも理解できる。栄養面も合わせてプライベートをしっかりフォローしたい。
万知は、仕事を辞めて家庭に入ることを了承した。
あの日から七年。心から笑った日は半分もない。編集の仕事を辞めていなければ、また違う未来があったのではないか。陽治の浮気に心を痛めて、正面から陽治にぶつかることも人に相談することもできずに、くさくさ鬱々と過ごす今とは違う未来だ。
「なんてね」
たまごの焼ける匂いを吸い込み、万知は苦笑した。
たらればの話だ。
陽治が浮気をしている証拠はない。探偵を雇う勇気もない。
陽治は優しい。週末はショッピングや映画に行くし、家事だって手伝ってくれる。何より、十分すぎる生活費とおこづかいを万知に渡す。どこにも不満はないはずだ、優しくてかっこよくて人も羨む満点な夫なのだから。
朝から鶏の唐揚げを揚げた。大きなバットに、唐揚げ、たまご焼き、カボチャの煮物、お新香、ちくわにキュウリを通したものを並べる。熱い食材は傷みやすい。粗熱を取りながら朝食をとるのが、万知の日課だった。
コーヒーをカップに注ぎ、テーブルに着くとスマートフォンにメッセージが届いていた。
母からだ。電話をしてと書いてある。万知は時刻を確認した。まだ六時半だ。
実家には、母と弟の雅知と妻の薫、プラス愛猫のシアンが暮らしていた。父は、万知が結婚する前に病気で亡くなっていた。
こんなに早くから電話をして、雅知たちに迷惑なんじゃないかと思ったが、母を無下にできるわけもない。万知は、スマートフォンの通話履歴の上にある『お母さん』をタップした。
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