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万知を抱きしめる陽治の胸から、万知の知らない匂いはしなかった。おそるおそる顔を上げると、陽治が万知を見下ろしていた。冷酷なようで優しい瞳に、なぜかとても安堵した。
「今日も遅くなるって」
「打ち合わせでね。帰ったら万知がいなくて、心臓が止まるかと思った」
万知はもう一度胸に顔を埋めると、今度は注意深く匂いを嗅いだ。やはり、知らない匂いはしない。仕事で遅くなったのは、本当なのだろう。
陽治は浮気なんてしていなかった。
嫉妬心は怖い。疑えば疑うほど怪しく見え、万知の妄想をかき立て、不安ばかりを煽っていく。
「ごめんなさい」
抱きしめられたのはいつ振りだろう。万知は瞳を閉じた。優しく抱きしめてくれると思ったのに、陽治の腕が緩んだ。
「万知」
感情を抑えたような冷たい声に、万知の心臓が大きくと鼓動を打った。やはり、陽治は怒っている。万知は、家で帰りの遅い陽治を待っていなくてはいけなかった。外食なんて行ってはいけなかった。また嫌われる、突き放される。そう思ったときだった。
息もできないほどの強い力で、万知は抱きしめられた。
骨がばらばらに砕けそうな力を、万知は初めて経験した。苦しくて顔を上げようとした万知の首元に、陽治が顔を押しつけた。
浅い呼吸を繰り返しながら、服越しに感じる陽治の鼓動も早いことに、万知は気がついた。
「誰がタクシーに乗ってた?」
小さいけれどはっきりとした声が、細く尖った縫い針のように、万知の耳に刺さった。
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