会社帰りの壁の穴

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会社帰りの壁の穴

 残業もようやく終り、すっかり暗くなった夜道を急いでいた私は、ふと奇妙なものを目にすることとなった。いつも通っているはずのその道で、あるはずのない非日常がそこにはあった。  穴だ。  コンクリートの壁に穴が開いている。  それだけなら特に何もおかしくはない。幾らコンクリートが頑丈で硬い建材だろうと、劣化でひび割れもするだろう。  ただ、その穴は異常だった。  まるで真っ白い紙に印刷されたような黒い丸。即ち、ひび割れのような亀裂ではなく、すっぽりと真円に壁が無い。そのフチもまるで紙をパンチで抜いたかのようなはっきりとした境界を持っていた。  思わず、疲れ切った身体を強引に引きとめ、まじまじとそれを見る。  穴だ。  何の変哲も無い。  ただ、いつもの通り道にあるはずのない穴である、ということを除いて。  私は特に意味も無くきょろきょろと辺りを見回した。…誰もいない。  まるで、私だけがこの奇妙な空間に迷い込んだかのような錯覚を感じた矢先、おそらく部活帰りの学生であろう、青年が道の先から現れた。じょりんじょりん。丁度彼の進行上に立っていた私は、その整備の欠片もしていないような濁ったベルの音に慌てて立ち退いた。  まるでその音が皮切りだったかのように、私の目の前をライトを点灯させた軽自動車が通り過ぎ、ランニングウェアを来た男が反対方向から来て通り過ぎていった。  ふと壁に視線を向けて、それでもまだ、穴はそこにある。  まるで穴に気付かない通行人に疑問を持った私は、夜の散歩だろうかリードもつけず犬を連れたご老人に声を掛けた。 「あの、ちょっとすいませんが」 「はいはい、なんでしょうかな?」 「あの穴が見えますか?」 「...あなぁ?」  そのご老人は目が悪いのか、よたよたと道路を横切って私が指差した壁に近寄り、その穴に手を翳して__  スッと中に吸い込まれた。  私は呆然とそれを見送って、慌てて駆け寄るもご老人の姿は見えない。 いつの間にかつれていたはずの犬も消えていた。  なんてことだ。  そう思った直後のことだった。  私は突然、何者かに肩を叩かれ飛び上がった。 「もしもし、どうされましたかのう?」 「えっ あっ …は?」  そこには穴に消えたはずのご老人がいて…ご老人の背中に穴がくっ付いていた。  壁を見る。穴が無い。  ご老人を見る。穴を背負われていらっしゃる。  その隣に黒い影がチラついて、見下ろしてみると、何故か犬も穴を背負っていた。  いや、その表現は正確ではない。後ろ足のすぐ後ろにくっ付いているようで、犬の背丈の中心が丁度、穴の中央になっている様子だった。  私は混乱しているはずなのに、妙に冷静にその状態を分析していた。  …あまりにその状況が現実離れしていたからかもしれない。  そしてご老人は私があまりに無反応であったからか、首を傾げてそのまま私の前を通り過ぎて道を歩いて行ってしまった。呆然とその様子を見送って、慌てて後を追いかける。もしあの穴が危ないものだとしたら、私はやらかしてしまっているからだ。  ご老人をモルモットの如く使ってしまった罪の意識に苛まれながら老人を呼び止める。  すると、どうしたことだろうか。  ご老人が背負っていたはずの穴が、ご老人が立ち止まったにも関わらずそのままご老人を通過して前へ、前へと進んでいくではないか。 「あのぅ…どうされましたかのう…?」  目の前には不安そうなご老人。その背後を先へ先へと進み行く穴。  そしてその穴は先を歩いていたご老人の柴犬を吞み込んだかと思うと、そのわんこが骨と化した。にも拘らずわんこは歩き続け…、電信柱に衝突しバラバラに散らばった。  空いた口が塞がらない私に、老人は困惑した様子で話しかけ続ける。  心臓が早鐘のように鳴っており、それどころではない私は電信柱へと駆け寄ろうとして…  唐突な浮遊感に私の手は宙を掻き、アスファルトを叩き付けた。  舗装されて長い時間が経ったアスファルトは生身の手で叩きつけるには刺々しく、ジンジンと手が痺れ、その麻痺に似た感覚に悶えている間にご老人の足が何事もなかったかのように私の隣を通り過ぎていった。  視線の高さがおかしい。  まるで子供の頃に戻ったかのように地面が近く、ご老人の背が妙に高く感じた。  ふと、見下ろすとすぐ近くにアスファルトの表層が見え、地面から私が生えていた。  混乱した頭で先ほどのことを思い返す。  突然感じた浮遊感。子供のような視線の高さ。地面から生える私。  そして思い至る。  穴に落ちたのだと。  そして何故か。  穴は私の下半身を飲み込み、上半身は道路上に突き出しているのだ。  …どうすればいいのだろうか。  辺りを見回すとご老人はすでにいなくなっており、骨格だけの犬も跡形もなく消えていた。  まばらな電灯が時折、点滅する他、特に動きが無い道に生ぬるい初夏の風が吹いた。  とりあえず、穴から抜け出そうとして両腕をアスファルトにつけて伸び上がろうとする。  抜けない。  しばらくそのまま頑張ったものの、結局私の身体は微動だにしなかった。  きっとこれはご老人とそのわんこを実験台に使った罰なのだろう。  悪戦苦闘するうちにそんな境地に達した私は、疲れきって目を閉じた。  目を覚ますと、そこは自宅の寝室だった。  欠伸をして起き上がり、寝ぼけ眼で洗面所へと向かう。  コップに立てた歯ブラシにはみがき粉をつけて磨き、冷たい水で顔を洗った。  いつものようにトーストを焼き、野菜ジュースを注いで、朝食を取る。  簡単に朝食を済ませ、自室に戻り身だしなみを整えて、昨晩に準備した仕事鞄を手に取り家を出た。  会社へ向かう途中。  壁の穴を見た私はそのすぐ横を何食わぬ顔で通り過ぎた。  …いや、その表現は正確でない。  私はまず、穴を目撃してぎょっとして目を逸らし、壁に目を向けずに通り過ぎた。正直に言えば、洗顔した辺りから思い出していたのだ。しかし、だから何だと言うのだ。  あの摩訶不思議な体験を私にさせた穴に、どんな顔をして会えというのだ。  そもそも穴なんだから感情なんてないはずなのに。  私は再び穴に落ちた。  朝の時間。出勤の時間であり、若人には通学の時間でもある。また、ご老人には散歩の時間でもあるかもしれない。  そんな中、私は穴に嵌っていた。  私の隣を平然と私と同じようなスーツを着たサラリーマンが通り過ぎていき、私がいる場所とは反対側を自転車に乗った学生と思しき少女達が楽しげに会話しながら走っていった。  誰一人、私を気に留めない。それどころか見向きもしない。  客観的に見ればシュールこの上ない状態だが、私は理不尽さも忘れて少し悲しくなってしまった。  ふと、気が付くと、私は会社の食堂で昼食を取っていた。  先ほど朝食を食べたばかりのはずの私が、何故か空腹で日替わり定食をパクついている。その数秒後、例の出来事を思い出しかけて、頭の隅に追いやった。  まさか帰りは無いだろうと。  でも念のため、あえて遠回りして別の道を通って帰ることにした。  落ちた。  何事もなく目覚めた翌朝。  流石にもう、次も確実に落ちることは想定できてしまっていた私は、苦肉の策でタクシーを呼ぶことにした。  結果は惨敗。  やはり突然の浮遊感により、気が付くと私は地べたの穴に嵌っていた。  私が突然消えたはずであるにも関わらず、タクシーは私を置いて道の向こうへ走り去って行ってしまった。  私はそれを悲しい瞳で見送って、目を閉じた。  そのうち、どんなことをしても無駄だと察した私は、大人しく穴に嵌ることにした。  不思議なことに、穴に嵌っている時間が無かったかのように日常は繰り返され、特に給料が天引きされることも、その間に使った紙幣や硬貨が無かったことになることも無かったのだ。  日常に支障を来さない以上、その異常を受け入れることが出来るだけの余裕が私にはあった。  …諦めた、とも言う。  そんな諦めの境地を数日続けると、穴は私を捕まえなくなった。  壁にはある。  しかし、目の前を通り過ぎても私をあの浮遊感と共に拘束することは無くなった。  それで確かに、異常は解決した。  特に私が何をするでもなく解決してしまった。  だが、私は妙にもやもやした気持ちを抱えて日々を過ごすことになった。  何か、大事なことを忘れているような、あの異常な日々にあるはずも無い既視感を感じていた。  それが明らかになったのは、それからひと月がたった頃だった。  その日は休日で、私は久しぶりに家で映画でも見ようとお気に入りのDVDが眠る納戸を開いて、一見整理されているようでいて煩雑な積み重ねの中を手探りで探っていた。  その中でふと、奇妙な手触りを感じて引っ張り出してみると、それは色あせたブランケットだった。  どうしてこんなものが、と思うと同時に、これを使っていた当時の光景が脳裏にフラッシュバックした。  気が付くと、私はそのブランケットを握り締め、駆け出していた。  まだいるだろうか。いや、いるに違いない。彼女のことだ。いないはずがない。  果たして、その予想は外れた。  外れてしまった。  そこには何の変哲も無い壁があるだけで、あの奇妙な穴は跡形もなく消えていた。  いや、きっと最初からなかったのだ。  仮に、あの穴が彼女だとしても、あの穴は物理法則を無視した異常であったのだから。  きっと、私が夢を見ていたのだろう。  そう結論付けて、それでも私はブランケットを力の入らない手で握り締め、その場を後にした。  そして落ちた。 「ミーちゃんか!?」  私が間髪いれずにそう叫ぶと、穴の中の私の足元に彼女が触れた気がした。そのスーツ越しに感じるしなやかな身体に、私はえもいわれぬ懐かしさを覚えて、目を閉じた。  帰り道、私が彼女の名を呼ぶと、彼女は壁と道路の平面を滑るかのように私の周囲を回って、私の背中に這い上がった。といっても感覚はなく、ただ振り向くとそのように見えただけだったのだが。  そういえば彼女はこうして私の身体で、マフラーのように首筋に落ち着くのが好きだった。  その日から、穴ことミーちゃんと私の不思議な生活が始まった。  こんな不思議な日常が、あとどれだけ続くのかは分からないが、この素敵な出会いに今は感謝しようと思う。
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