落書き

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落書き

 私が住んでいる賃貸アパートの前には小さな公園がある。  ひざ丈ほどの手すりの囲いの中にブランコが2つとベンチが一つだけ。たったそれだけだ。 落書き  会社からの帰宅途中にその公園の前を通るのだが、時刻は午後10時。  当然ながら、公園に人は人っ子一人おらず、昼間にはきっとたくさんの子供たちが遊んでいるのだろうなと思いながら通り過ぎる……のはごくたまに、だ。  大体疲れ切って帰り着くものだから、夜の公園になど目もくれないことも多い。もっとも、こんな時間に誰かいたら不審者に間違いないのだが。仮に子供がいたとしても、相当に不気味だし怖いし。  __ただ、その日は少し様子が違うようで、いつもは誰もいないそこに人影があった。ベンチに座っているらしく、こちらからは顔が見えないが、間違いなく子供ではない。体格は大人ほどで、街頭の明かりに照らされたその姿は男性のようだ。というか頭部が…その、少し光っている。  近ごろは私の子供の頃とはうって変わって、街灯が多く立ち並んでいるおかげで夜でも結構明るい。…そのせいで不審人物がはっきりと照らされてしまっているのは少々困りものだが。  しかし、と私は思い直す。  そもそも後ろめたいことをしようとしている人間が、街頭に照らされるような場所にいるはずがない、と。それならばむしろ街頭の下を避けて、暗がりで怪しい動きをしているはずだ。  であればこのおっさんは夜の公園に用がある普通のおっさんだ。…普通のおっさんは夜の公園に用などあるはずがないのだが。この人は何をしにここへ来たのだろうか。  なんとなく声をかけるのが怖くて、その後ろを通り過ぎる。  横目でちらちらと確認した限りでは上体を少し倒し、自分の足元に目を向けているようだった。彼の足元に何があると言うのだろう。少し気になりはしたが、うかつに回り込んで気付かれては困るので若干もやもやしながら自宅へと戻るのだった。  その日から、その公園のベンチでおっさんを見かけるようになった。  もちろん時刻は夜。私が公園の前を通るのは出勤時の朝と、帰宅時の夜なのだが、朝は何故かいない。  朝なら何の問題もなく__というわけでもないか。なにしろおっさんである。これがお爺さんであれば、ああ、日向ぼっこか、あるいは散歩かと目星をつけることもできたが、おっさんである。仕事もせず何をしているのか、と思うだろう。  だが、時刻は夜。夜ならば昼間は仕事をしているのだろう。少なくとも無職ではなさそうだ。  となると、昼間にはできないことをやっているのだろうか。昼間にできないこと、というとくくりが大雑把すぎて予想を立てるにも難しい。あまりにも情報が不足している、が、真相がわからなくて落ち着かなくなるほどでもない。  次第に私の中で夜の公園のおっさんは日常の風景の一部となり、特別考えを巡らせるほどでもなくなるのだった。  __その日は久しぶりの連休の初日だった。私の勤めている会社は比較的ホワイトで、少なくとも週に1日は休みがあるのだが、その日は連日の疲労を癒すために一日寝て過ごすことが多い。仮に起きていてもインターネットで動画や映画を見るだけで終わる。つまり、外出はしない。  ただ、この度はいわゆる浮島連休で、月火と平日、水木と祝日で連休である。それなら金曜日も休みにしてくれよとは思うが、そうもいかないらしい。  そういうわけで、まだ週の初め2日の労働ではまだ疲れ切っていないので、今日は気まぐれに外出することにしたわけだ。別に腐れ縁が一緒に汗水垂らして労働しようと誘ってきたことは関係ない。今日は久しぶりに映画館で新作を観たい気分だったのだ。  なぜ休みなのに働かねばならないのか。意味が分からない。社畜か。社畜なのか。まぁ、あいつは単に金が好きなだけだ。それはよく知っている。  話を戻すが、連休と言えど大型ではないし、日ごろの運動不足もある。そのために、日常の延長で手を打とう、というわけだ。…色々と言い訳したが、結局は歳である。  そのために私は出勤とは別の身支度をして家を出た。  そして、不審なものを目の当たりにする。  朝の公園にはいつものようにいくらかの子供たちがブランコで遊んだり、地面に枝で落書きをしたりと過ごしていた。まぁ、この賃貸に住むご家族のお子さんたちだろう。それはいい。  だが、妙なことが一つある。ベンチの前に誰も近寄らないのである。遠巻きに眺めはするが、少し迷いを見せた後に視線を逸らす。その様子は元気いっぱいの子供らしからなかった。  そこに何かあるのだろうか。何かあるのだろう。そう思わせるだけの訝しさがあった。  今日は夜の公園のおっさんもいない。いや、いつも夜にいるのだから朝にいるはずがないのだが。そこで私は興味本位で、道路からベンチ越しにその場所をのぞき込んでみることにした。  そこには__砂で作られた絵があった。どうやら蝶のようだ。それは繊細で美しい。なるほど、これは確かに。子供心に触れてはならないような静謐さを感じたのだろう。  砂絵、というものがある。指や手のひらで砂の山を崩しては整え、砂山の凹凸により立体的な絵を作り出す芸術である。その様は流動的で美しく、絵としての静止画だけではなく、映像作品として話題にされることも多い。  私も休日に動画を見るときに趣味で動画を上げている方のものを見たことがあるが、まるでアニメーションを見ているかのように思えたものだ。  この、公園のベンチの前のそれは静止画ではあったが、まるで蝶が飛び立ってこちらに飛んでくるかのような錯覚を覚えるほど、活き活きとしており躍動感に溢れていた。  しかも、この砂絵、どの方向から見ても蝶が舞っていると分かるのである。それはなんだか、この絵の描き手がこの絵を壊してくれるな、と訴えかけてくるように思えた。…おそらく考えすぎであろうが。  しかし、この絵があるせいで、子供たちは少し迷惑しているようだった。というのも、ベンチ前のほとんどを占めるその絵は公園のやや右側にあるのだが、その中央を含めた右側の多くを占領してしまっているために、子供たちが地面に絵をかくスペースが少なくなってしまっているのだ。  だから子供たちはこの絵にちらちらと視線をやり、自分の絵に目をやり、最終的には崩すのは無しだと結論付けてしまうのだろう。  確かにその絵は美しい。けれども、公園で遊ぶ子供たちを困らせていた。公共の場に相応しくはない。公園の土は子供たちのキャンバスであるべきだ。  というより公園は子供の王国であって大人が入り込む場所ではない。森林公園のような広い公園であれば多少は問題ないだろうが、ビルと建物の隙間にあるような公園では大人は遠慮すべきだ。  …だからといって私が何かするでもない。もし夜に会うことがあれば…いや、それでも声は掛けないだろうな。とそんなことを考えている内に、足元に絵があると知らなかったのか、駆け込んできた子供たちが絵の上を通り過ぎた。  すでに公園で遊んでいる子供たちがあっと声を上げたが、砂絵は無残、元が何だったのか分からないほどぐちゃぐちゃになってしまった。  …まぁ、こんなもんだろう。私が心配するまでもないか、そう結論付けてさぁ映画館へ行くぞ、と公園から目をそらすと、何故か子供たちの親御さんであろうママさん方に囲まれていた。  ……あっ、もしかして私が砂絵を描いたと思われたのだろうか。慌てて誤解を解くために私は口を開いた。  誤解が解ける頃には昼間になってしまっていた。当然映画は見逃した。  とはいえ、特別見たいわけでもなかったが…いや、チケット代が無駄になってしまった。これをママさん方に請求するわけにもいかず、やるせなさで体の力が抜けてしまった。  昼から何をしよう、ぼんやりと考えるうちに脳裏に浮かぶのは元凶のおっさんである。  とはいえ、今は昼。彼の活動時間は夜だ。それなら今のうちにどう説得するかと考えながら、いやいや、どうしておっさんに絵をかくのをやめさせようとしているのだろうか、と自問自答をしつつ、私は家へと戻るのであった。  そのまま悶々としながら夜。特に何も思いつかないまま、休日を棒に振ってしまったなとなんとなく考えながら、私はひんやりとしてきたベランダへ出てぐっと背伸びをした。  意外と体が凝っていたらしくぽきぽきと音が鳴る。ふと視線を下へと降ろすと、そこには電灯に反射して光るものが。おっさんの頭であるようだ…おっさん?  今ならまだ間に合うだろうか。私はおっさんの下へと駆けていた。  なぜあんなところに絵を描いていたのか無性に気になってしまっていたからだ。幸いにも、私が息せき切って駆け下りたとき、まだベンチに座っているようだった。  恐る恐る近づいて背中越しにのぞき込むと、そこには猫の下半身があった。  砂絵というと手をささっと砂の上で軽く動かすだけで簡単に絵ができたりするものだが、おっさんのそれは指先で慎重に少量の砂を取っては数秒眺めて、また砂を取って、ということを繰り返していた。  そんな様子だから猫はまだ下半身だけ。にも拘わらず、まるで触ればふわふわとしているかのように思える毛並みで活き活きとしたものだった。  思わず見入っていると、人の息遣いを感じたのが、おっさんが突然振り向いた。目つきが悪い。第一印象がそれだった。おっさんは私を見た途端、素っ頓狂な声を上げた。 「うぉわっ!?」  私は驚くと声が出ないタイプだ。っ!と息を詰まらせて一歩後ずさる。その間におっさんはきょろきょろとあたりを見回してほっと溜息をついた。 「なんじゃい。あんただけか。びっくらこいた」  びっくらこいたのはこっちもだ。といっても、これはお互い様だろう。  そんなことを言い合っていては話が進まないし、汗が引いてきてちょっと寒くなってきた。さっさと話を終わらせてしまおうと私はおっさんに理由を尋ねた。 「あん?絵を書いてる理由?へへっどうだい上手いだろう?」  おっとこれは人の話を聞かないタイプのおっさんかもしれない。話が長引きそうな予感がしたが、寒いのでごり押すことにした。 「…理由、理由ねぇ。俺の顔見りゃわかるだろ。えぇ?」  急に不機嫌になったおっさんはずいと近寄ってくる。同時に一歩引く。いわれた通りに顔を眺めるが、うーん。別にケガがあるわけでも火傷跡があるでもない。  きれい…というわけではなく年相応に皺のある顔だが、これがどうしたというのだろうか。私が首をかしげるとおっさんは毒気を抜かれたように表情を緩め、怪訝なものへと変えた。 「あんた…何も思わんのか?俺の顔を見ても?」  何も、というか、まぁ多少目つきが悪いという程度か、とつぶやくとおっさんは我が意得たりと頷いた。どうやらそれを指摘してほしかったらしい。 「俺はこんな顔してっからよ。何なら頭もハゲかけだし。昼間に俺がベンチに座ってみろ」  おっさんが言うには昼間に絵なんか書いてたらママさんに睨まれた挙句、通報されると言うのだ。いや、それは人相がどうとか言う話ではなく、平日の昼間におっさんが公園の地面に絵を書いてる不審さに問題があると思うのだが。  しかし、おっさんは私の思考そっちのけで嘆き始めた。 「前によ。通報されて警察沙汰になりかけたんだ。慌てて出てきた家内が取りなしてくれたからなんとかなったものの。…だけどさ。家で砂絵描くと家内がうるせぇんだ。散らかすなってよ」  なるほど、おっさんは砂絵が趣味らしいが、家でやると叱られるってんで外で書いているらしい。けれども、昼間にやると通報されるから夜に書いてると。最近は夜中も明るくていいよな、とおっさんは嬉しそうに笑った。いや、それは危ないからであって絵を描くためでは…  とはいえ、理由が分かった私はすっきりしたので、スマホを取り出した。 「おっ、え?ちょちょちょ、ちょっと待て、待ってくれ!」  おっさんが慌て始めたので、スマホを収める。何故こんなことをしたかと言えばこうすれば話が早いと思ったからだ。いい加減寒い。風邪をひく前に話を終わらせたいので、ちょっと脅させてもらった。  おっさんは私に対して急に態度を改めオドオドとこちらを見ている。 「た、頼むよ。見逃してくれないか…このままじゃ稼げなくなっちまう」  うん?何か今変なことを言ったような…。稼げなくなっちまうって、何だ。私が思わず尋ねると、おっさんは希望を掴んだと思ったのか少し表情を和らげて話し始めた。 「あぁ、うん。こう見えて俺、砂絵を録画してインターネットに投稿してんだよ。  それの広告収入とデザインTシャツで稼いでて…何とか自分の食費ぐらいはさ」  どうやら今時の職の方だったらしい。人は見かけによらないものだ。確かにあの砂絵のTシャツなら売れるだろう。とはいっても、不審人物には変わりない。  私は少し考えてふと思い出した。そういえば、つい最近労働を強いてきた人物がいたな、と。あれを紹介してこのおっさんが広告塔になればWinWinじゃないか、と気が付いたのだ。  具体的な話をしてみると、案の定おっさんはとびついた。 「本当か!?あ、いや、そんな上手い話があるかよ。こう見えて結構擦れてんだぜ俺はよ」  いや、見た目通りだろうという言葉を飲み込んで、私は説得を始めた。曰く、信頼を勝ち取れば専用スタジオを用意してくれるかもしれないこと、曰く、猫の手も借りたいという忙しさであること、曰く、仕事の方も続けられるように私もお願いしてみること。  結局、最後の一言が決定打になったらしく、おっさんはしぶしぶ頷いた。態度はそんなだったが、目はきらきらと輝いている。擦れているとは何だったのか。  とはいえ、問題が二ついっぺんに解決した私はホクホクで家へと戻るのだった。  そして風邪を引いた。全部おっさんのせいだ。  その後、どちらからも音沙汰は無いが、公園のおっさんはいなくなった。今もどこかで砂絵を書いているのだろうか。  最近のベンチ周りは子供たちの落書きであふれている。その中にはいつかのような蝶もあったりして、それを見るたびに私はあのおっさんの砂絵を思い出すのだ。 蛇足 「おう、最近どうよ。儲かってる?」  開口一番、そう言うのは腐れ縁の女。その傍らには例のおっさんがいた。  私は思わず顔を顰めた。最近やっと仕事のほうが落ち着いてきて、ようやっと心配事のない休日なのだ。だというのに私を煩わせる筆頭が現れた。私の機嫌は地に落ちた。どうしてくれる。  おっさんはそんな私の表情に怯えたのか額の汗をハンカチでふき取り始めた。完全に残りの毛も剃ったのかきれいなツルッパゲだ。その方が潔くていいな。よく光ってる。  そんなおっさんを少し眺めて溜飲を下げた私は女に向き直った。  おっさんが清涼剤になるとは世も末だ。そんなことを考えながら。 「わかってるだろ。ぼちぼちだよ」 「ま。そうだろうな。こっちもぼちぼちだ。このハゲのお陰で少しはマシになったけどな」 「お、お陰様で家内にも文句を言われなくなったよ。なんなら休日に旅行に行くほどさ」  そいつは重畳。私はおっさんの幸福を祝った。落ち着きを取り戻したおっさんはニヤっと笑う。  一方で女は私とおっさんの仲が気に入らないのか、べっ、と唾を吐いて話し始めた。 「んでよ。今度、このハゲの伝手で一仕事やるんだけど、てめーもどうだ。一枚噛まねぇか」  だが、私の答えは決まり切っている。今回もご遠慮します。だ。理由は簡単。こいつの人遣いは荒い。そりゃもう荒い。しかも毎度のように言質を取らねば報酬も払わない。その言い合いも面倒な上に、日ごろから運動不足の私にはキツいのだ。勘弁してくれ。  すると女はぎちっと眉間に皺を寄せた。これもいつもの光景だ。最初こそビビっていたが、今は慣れたもんだ。 「そうかよ」  そう言い捨てて女は踵を返して足早に歩いて行った。その後ろをおっさんが慌てて追いかける。がんばれおっさん。ファイトだおっさん。その背に声援をかけながら私も踵を返した。とても新作映画を見る気にはなれなかったからだ。今回のは…恋愛映画だったか。  たまに激甘のを見たくなるのだが、こういうのはムードが大事だ。すでにぶち壊れて跡形もない。今度からはチケット代を無駄にしないようにオンラインサービスで見るようにしよう。  私もいい加減学ぶのだ。少し割高だが、外に出なくてもいいからな。 「さて、いい加減あいつも諦めてくれると助かるのだが」  得意なことと好きなことが同じとは限らないとは誰が言った言葉だったろうか。私もそろそろ三十路半ばだな。おっさんのようにハゲるのだろうか、とふと思った。
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