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曇りの空の星
自分の体形を憂えた私は思い立って走り込みを始めた。最初こそ辛くて仕方がなかったが、気がつけばかつてのように走れるようになってきていた。そんなある日のことだった。
曇りの空の星
その日はあいにくの曇りだった。
そろそろ夏といってもいいぐらいの季節だ。無理をしない程度に頑張ろう。曇りの日は紫外線は強いと聞くが、曇りの日に帽子をかぶるというのも変な話だ。そもそも私はいい年したおっさんだ。2児の父ではあるが肌を気にするような歳でも性質でもない。
そんなことを考えながら、タッタッと軽快に…、あー、少なくとも私にとっては軽快に走っていると、いつも走っている道の先に見慣れないものが見えた。
女の子だ。
年のころは…私の娘よりは年上に見える。私の娘が中学生だから高校生といったところだろうか。制服ではないからどこの高校の生徒かは分からないが…こんなところで何をしているんだろうか。
気にはなるものの、私に少女に声を掛ける勇気はない。というか、自分の娘に声を掛けることでさえためらうのに、他所の娘さんに声を掛けられるほどの勇気も図太さもない私は、彼女の目の前を颯爽と通り過ぎた。女子高生の娘さんはなぜだか、曇り空をじっと見上げていた。
何かあの空に何か見えるのだろうか。私も目を凝らしてみたが何も見えない。きっと私には見えない何かが、彼女の目には映っているのだろう。
その日から私はたびたび彼女を見かけるようになった。そして、そういう日は必ず曇りの日。その度に目の前を通り過ぎていると、なんだか顔見知りのように思えてくるものだ。
その日はたまたま家の廊下で娘と鉢合わせて挨拶を交わせたからか少し舞い上がっていた私は、柄にもなく娘さんに声を掛けてしまっていた。
「やぁ、こんにちは」
「...あ、えっ…と、こんちは」
彼女は空に向けていた目を地上へと戻し、少しの間私を見た後に、後ろを振り向き、誰もいないことを確認してから私にかろうじて、といった様子で返事を返した。
…やはり声を掛けない方がよかったか、とも思ったが、かけてしまったものは仕方ない。幸い、返事はしてくれたようだし、少し世間話でもさせてもらおう。と私は覚悟を決めた。
「私はちょっとダイエットの為にランニングをしているんだけど、君はここで何を?」
「えっ…と、星を見てるんです」
「星…を?この曇り空で…?」
私は顔を空へと向けるも、星は見えない。そりゃそうだ。曇ってるんだから。でも娘さんが言うにはこの空で星が見えるらしい。
思い返してみれば娘さんが外で立っているのは必ず曇りの日で、しかも決まって空を見上げている。星でも見ていないとそんなことはしないだろう。とすると本当のことだろうか。
判らないが、娘さんの目をまっすぐ見る度胸のない私には言葉で判断するしかなかった。
「ふーん…。そうか。私もこんど探してみようかな。ありがとう、それじゃ、また」
「えっ、あっ、はい」
何故だか驚いたような声を上げた彼女をその場に、私は走り出した。
曇りの日の星か。今までに考えたこともなかったけど、見つけたら彼女との話も合うだろうか。
っと、それよりも、私の娘との会話の無さを先にどうにかしなければ。むずかしい年ごろだとは判っていても、どうすればいいか分からないが。手始めに三段腹をどうにかしようとしているが、やせられるのかな、私は、はぁ。
それからしばらくの週末は晴れの日で、彼女の姿は見掛けられなかった。それでも私がランニングを続けられたのは偏に娘の、私を見る目が少し変わったからだろう。
頑張ってやせようとしていることをきちんと分かってくれたのか、それとも、あの時に逃げ出さずに挨拶できたのがよかったのか。あるいは運動するようになって汗の臭いに気を遣うようになったからか。どれが効いたのかよく分からないが、なんにせよ、私の気持ちはこのところ上向きだった。
そんな時に週末が曇り、久しぶりに彼女を見た。
彼女はまた曇り空を見上げていた。私も少し走る速度を緩めて空を見上げてみるが、やはり星は見えない。
久しぶりだが、覚えていてくれているだろうか。そんな不安もあったが、今の私は上り調子だ。思いきって声を掛けてみると、彼女はこちらを一瞥してまた空へと目を向けた。
「まぁ、ボチボチですね」
私はそうか、としか返せない自分が途端に恨めしくなった。
彼女は何か悩みか、あるいは困ったことがあってこんなことをしているのでは、と考えが至ったものの、ようやく最近娘とのやりとりが復活した私にはこれに返せるだけの能力を持ち合わせていなかった。
彼女が見る様に空を見上げても星は見えない。
もどかしい。そう思っても、私には再び走り出す以外の選択肢が取れなかった。
その日から、私は何かにつけて彼女に構おうとして、大半を失敗に終えた。返事が返ってこない日もあった。自分の娘とのやり取りでは上手く行ったことも、彼女相手では反応が薄いこともあった。それを試した後で、自分の非を悔いたものだ。
私の娘と彼女は違う。そんな単純なことが分からなくて、私は彼女を不快にさせたのでは、と思うとやるせない気分になったものだった。
それでも、その内の数少ない2度ほどはまともに会話を交わすことができた。それは曇りの日の星とは全く関係のない、私の娘の話と、その日の午後は雨が降るかもしれないという他愛無い話だったが、それでも、私は彼女の表情を和らげることができるだけで満足だった。
願わくは私の娘にも笑顔でいて欲しいが、まだそちらも難しい。
私が男子中学生の頃など悪ガキであったし、そもそも性別が違うのだ。そう簡単にどうにかできるものでもないだろう。私の腹と同じように。ゆっくりやっていくしかない。
そんなことを思った矢先のことだった。
曇りの日でも彼女を見かけることがなくなってしまった。
季節はとうに冬に入り、雪が降ってもおかしくない時期のことだった。
丁度その頃だった。
私の娘が、会話の中で先輩の友達が受験シーズンに入ったらしいと話してくれたのだ。もしやと慌てて容姿を確認すると、赤い眼鏡をかけたあの娘さんはその当人だという。
どうしてもっと早く確かめなかったのかと思うと同時に、私は途端に不安になった。
私は邪魔になっていなかっただろうか、と。今思い返してみれば、親子とも年の離れた二人の会話だ。ちぐはぐにもほどがあるし、的外れなことも多く言っただろう。それが彼女の重荷になっていなければいいが、と私は不安に苛まれながら結果を待った。
そのストレスがあったおかげか、私は痩せた。
単に食事が喉を通らなかっただけだが、娘にも息子にも嫁にも心配された。何より、普段のように大食いの私がろくに食べない様子が異様に思われたらしい。
私自身も今までにこんなことは無かったから自分でも驚いてしまった。それだけ彼女のことを大事に思っていたのだろう。思えば私の娘を重ねていたのかもしれない。いずれ私の娘も彼女と同じ歳を迎える。そう思うと他人事のようには思えなかったのだろう。
そして私のランニングは家族に心配されて取りやめとなった。
そもそも痩せるためのものだったのだから、目的は達成したのだから、と抑え込まれてしまった。走るのが気持ちよくなってきていたためにそれは残念だったが、家族の顔色を見る限りでは断念するしかなかった。こんなことで娘の機嫌を損ねることはない。
大体、娘の機嫌を取るためのランニングだったのだから、思えばそちらも達成しているのだ。
そんな風に色々な事があった後のこと。娘が中学3年に上がった頃。
私は居てもたってもいられずそわそわとしていた。週末、そして曇りの日。彼女は居てくれるだろうか。判らない。どちらでも構わないから、私はとにかく体を動かしたくて、私は家族に内緒でこっそり家を後にした。
果たして、彼女はいつもの場所に立っていた。
今日は、空を見上げていない。まるで私がくることを待っていたかのように、角を曲がった私と目が合った。私が口を開く前に、珍しく先に彼女が口を開いた。
「最初は鬱陶しかったけど、悪くなかったよ」
それだけ言って、彼女は踵を返して目の前の家へ戻っていった。
そうか、彼女は自分の家の前に立っていたのか。とすると、受験の気分転換だったのだろうか。
そう考えると、先ほどの言葉の意味も分かって来る。随分と微妙な感想ではあったが、それでも、私は少しうれしくなって、家へとゆっくりと戻った。
ふと、曇り空を見上げたが、やはり星は見えなかった。
蛇足
以前、私と遊んでくれていたお姉ちゃんは無事、志望校に合格できたらしい。私も今年は受験生だ。高校のそれとは違うと思うけど、不安なものは不安で。
だけど、私には先輩もその友達のお姉ちゃんも、お母さんもいる。おまけでお父さんも。弟はまだ中1だから役に立たない。少なくともお父さんの方がまだ役立つに違いない。
臭くてデブでおどおどとしてて、あんまり好きになれなかったお父さんだけど、運動をし始めてからは臭くもなくなったし、相変わらずおなかは大きいままだけど、私をちゃんと見てくれるようになった。
相談相手としてはまだ頼りないけど、気紛れに話をするぐらいなら大丈夫だ。1年前と比べるとたまには話すようになったから。
根拠はないけど、私は大丈夫だと思える。
そんなふうに思えるのは、身近に頼りになる人がいるからなんだと思う。一番はお母さんで、二番目はお父さん。学校の先生も合わせたら先生が二番目にくるけど、ふと困ったときに相談できるのはやっぱり家族みたいで。
そういえば、お父さんはよく笑うようになった。
前までは私に話しかけるにも腫れ物に触るみたいに緊張してたのに。何かいいことがあったのかもしれない。お母さんには浮気を疑われてたけど。でも、今無事ということは浮気ではなかったんだろうな。
今度、何があったのか、きいてみようかな?受験勉強の息抜きに。
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