Le chat rouge

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 2. 雷の一撃  9月。グランゼコール(大学より格上の超エリート難関校)の一つ、パリ高等師範学校を卒業した私は、母校のリセ(高校)で国語の教師をすることになった。  我が校から、より多くのグランゼコール進学者を出す事。これが私の使命である。 「静かに!ヴァカンス明けでまだ浮かれているアホがいるようだが。今からディクテ (書き取りテスト)を行う」  入学早々のテストにブーイングの生徒達。 「お前達の国語能力はこれで大体分かるからな。始めるぞ!」  試験用の文章を読み上げ出すと、慌てて生徒達は書き綴り、静かになった。   「アレクシィ先生、初日からちょっと厳し過ぎたかな〜」  彼は先輩教師、ダニエル・ブレッソン先生だ。 「教育水準を上げることは大事だけど、生徒をふるいにかけて、落第や退学する者を増やし、エリートだけを残す。それは教育として正しいと思う?」 「はい。成績が悪い者が落第するのは自業自得かと。やる気がないだけでしょう」  当然といった風だね、とダニエルは笑った。 「実力があっても、良い環境が整ってなければ潰れてしまう。この国は学歴社会だ。僕は変えたい。生徒の知識欲を引き出し、学ぶ楽しさを教え、落ちこぼれを1人でも減らす。根底から学生の質を上げるんです。それが、失業者や貧困を減らすことに繋がる、そう思わないかい?」  意外だった。ダニエルはいつも適当な男だと思っていたが、これ程まで熱い情熱を持ち、生徒のことを考えていたとは。だがそれは、単なる理想に過ぎないと、この時の私は思うのだった。 「まぁ、やり方はアレクシィ先生にお任せしますけど…。あれ?何か怒ってます?」 「いえ。こういう顔なんで」 「あそう。暗いし怖いし、ノルマリアン(高等師範学校卒の人)って皆そんな感じ?」 「さぁ…」    人付き合いは苦手だ。特に親しい人もいない。それでもいいと思っていた。だが、レポートと勉強漬けの毎日から解放された今、ふと心の隙間に流れ込む物寂しさを認めざるを得なかった。  かと言って、一体どうすれば良いのだ?私は何がしたいんだろう?  そんな事を思いながら街を歩いていると、気になるカフェがあった。老舗でもなく、人気の名店でもなく、こじんまりとしているが、上品で落ち着いた雰囲気を醸し出している。私は導かれる様に、Le chat rouge(赤い猫)の扉を開けた。   「ボンジュール、ムッシュー」  まだ若いだろうに、なかなか貫禄のあるギャルソンが迎えた。女の様な華奢な身体に、ややつり上がった目、少し長い赤い髪を後ろできっちり結んでいる。美しい人だった。一人で店を切り盛りしているのには関心する。  学校が休みの日には、人懐っこい少年が1人バイトに入る。ハヤトという日本人留学生だ。彼に興味は無いが、おかしなアクサンや間違った文法のフランス語を話されると、職業柄気になってしまう。  赤い髪の人も日本語が分かるようで、時折二人は日本語で話していた。どうやらその少年にフランス語を教えているらしく、日に日に辿々しさは無くなって行った。  何故あの人は日本語を話せるのだろう?私は妙に気になった。尋ねてみれば良いものを、いざとなると躊躇してしまう。目が合いそうになれば、慌てて読んでいる新聞に隠れた。昔から、眼つきの悪い所為で怖がられたり、睨んだと因縁を付けられたりした。あの人にはそう思われたくない。  いつものコーヒーを頼み、お代を払う。話しかけるチャンスだ。たが、いきなり個人的な質問をするのは失礼だろう。まだあの人は目の前にいる。動悸がして来た。落ち着け。  そっと顔を上げてみる。目と目が合った。 「赤い猫。…変わった名ですね。何か意味があるんですか?」  思い切って声を掛けると、相手は少し驚いた風だったが、普通に答えてくれた。自分が赤毛で猫の様だと言われるから、〈赤い猫〉という店名にしたのだと。  やっと話せた喜びも束の間、どう会話を続けで良いか浮かばない。すると、向こうから「猫は好きですか?」と話しかけてくれた。  私は迂闊にも正直に、猫は苦手だと答えてしまった。もっと何か気の利いた事を…。 「でも、この店は好きですよ」  慌てて付け足したものの、気を悪くするかもしれない。ああ、しまった!私は再び広げた新聞に隠れた。 「気に入って頂けて光栄です」  淡々とした口調で、あの人は礼を言った。機嫌を損ねてはいないらしい。  僅かでも会話ができて良かった。私は手帳に「赤い猫、赤い髪」と書き留めた。    翌日もまた店を訪れた。今日はもう少しあの人と喋れるかもしれない。 「お客様、昨日こちらをお忘れになっていましたよ」 「あ、どうも」  うっかり手帳を置き忘れたとは。だが、あの人と話すのに良いきっかけになった。こんな事で浮かれる自分が恥ずかしい。取り敢えず、コーヒーでも飲んで落ち着こう。  あの人はじっとこちらを見詰めている。薄っすらと笑みを浮かべて。何だろう?ドキドキする。 「赤い猫、赤い髪…って、私のことですか?」  見られた!あれは、初めて会話したのが嬉しくて、記念に書き留めたのだった。 「別に、あんたのことを書いたつもりは無い」  あの人は不満そうに「そうですか」と言ってそっぽを向いた。どうやら怒らせてしまったらしい。理由は分からなかった。  私は手帳から、記念にメモしたページを切り取った。もし、これはあなたの事だと答えたら、どう思ったのだろう?怒らなかったんだろうか。  あの人はこちらに背を向けたまま、他のテーブルの方へ行ってしまった。私は帰ろうと立ち上がり、すれ違いざま挨拶を交わしたが、あの人がこちらを振り返ることは無かった。  ——あなたのことが知りたい。  唯、それだけだ。なのに、このいたたまれない気持ちは一体…?     「アレクシィ先生、職員会議始まりますよ」  ああ、そうだった。ダニエルに言われ、慌てて準備をする。 「どうしたんです?物思いに耽ってるなんて珍しいなぁ。恋ですか?」 「違いますよ!行きつけのカフェの名前が少し変わってて、どこかで聞いたような気がしたもんで…」  小走りで会議室に向かう。 「どんな名前なんです?」 「赤い猫」 「あ!それ!…って、時間ないから後で!」    会議後、ダニエルに呼ばれて資料室へ向かった。この学校の歴史やアルバム、卒業名簿等が納められている。 「いや〜懐かしいなぁ。アレクシィ先生の写真もこの辺にあるんじゃないですか?」  二人とも同じリセ(高校)を卒業し、現在はここの教員である。 「ダニエル先生、一体何を探してるんです?」 「あった、あった。ほら」  アルバムを開いて、一人の女子高生を指差した。キリッとした目に赤い髪の美しい少女が写っている。 「赤い猫。彼女、影でそう呼ばれてたんですよ」  あのカフェの店員が頭に浮かんだ。ギャルソンの制服を着ていたから男だと思っていたが…。 「アレクシィ先生が入学した時には、もう卒業してたから知らないだろうけど、噂くらいは耳にしたかもね」  写真の下に〈アリス〉と名が記されていた。  そのアリスという少女は、飛び級し14才でリセに入学し、グランゼコールに入る実力があったにも関わらず、道を絶たれた。進学間際、親が粉飾決算と多額の脱税で逮捕され、財産も全て差押えられたそうだ。 「ホント惜しいね。我が校伝説の天才だよ?IQ高い上に、様々なコンクールでグランプリを飾ってね。ディクテ 、ピアノ、空手…。才能あるのに、優勝すると満足してやめちゃって、違うジャンルに挑む変わり者だったな」  そう言えば、幼い頃に出場したコンクールで、「今日は赤い猫がいるから、優勝は無理だ」と誰かが言っていたのを思い出した。 「赤い猫…あの人が?」 「もしや、先生の行ってるカフェに居るんですかぁ?彼女」  不覚である。あの店は誰にも知られたくなかった。一人で安らげる心地良い場所。なのに、ダニエルにしつこく頼まれ連れて行くことになってしまった。      ◆◆     ◆◆      ◆◆       ◆◆   「ボンソワール、ムッシュー。おや?お連れ様がいらっしゃるとは、珍しいですね」  不満気な彼の隣りに、見覚えのある顔があった。 「アリスさん!お久しぶりですね」 「おや…ダニエル君でしたか」  ぺらぺら話しかけようとするダニエルをアレクシィが静止した。 「駄目ですよ、ダニエル先生。いくら知り合いでもこの人、今仕事中なんですから」 「ご注文は?」 「このワインを」  アレクシィが素早く注文する。  学生時代の知り合いにはあまり会いたくなかったが、急に彼との関係性が近くなったように思えて、アリスは内心喜んだ。「アレクシィ先生」とダニエルが呼んでいるのを聞いて、初めて彼の名を知った。  アリスがテーブルを離れ、アレクシィは彼女を目で追った。今日はもう怒ってないようだ。ほっとするアレクシィをダニエルはニヤニヤして見た。 「アレクシィ先生ったら、ぼーっとしちゃって。すっかり恋する男の顔だな〜」 「はぁ?変なこと言わないで下さい!」    閉店の時間が迫り、客は二人だけになった。 「アリスさん、どうしてこんな所でカフェなんかやってるんです?」  酔っ払って絡むダニエルに、失礼ですよ!とアレクシィが注意する。 「唯の気まぐれです。やってみたかったので」  アリスが答えても、ダニエルは「へぇ〜」と笑うだけだ。客は大抵、自分が話したいだけで店員の話には興味がない。しかし、アレクシィは違った。 「アリスさん、彼とは親しかったのですか?」  あのお調子者のダニエルと?アリスは思わず、フフッと笑った。 「親しくはないですね」 「そうですか。実は、私も同じリセの出身で…」 「ほう、そうだったのですね。では、アレクシィ君とお呼びしても?」  構いませんよ、と言うアレクシィにダニエルは肩を回した。 「ねぇねぇ、彼のことどう思います〜?アリスさんに惚れちゃったみたいですよ」  アレクシィは慌ててダニエルの腕を振り解いた。 「ちょっと!いい加減なこと言わないで下さいよ」 「じゃあ、僕のものにしちゃおうかな?」  アリスは溜息をついてダニエルに言い放った。 「お客様、そろそろ閉店の時間ですのでお帰り下さい」  遠くでゴロゴロと雷が鳴る。ダニエルは席を立った。さて、恋のキューピットはこの位にして、後は自然の流れに任せるとするか。二人がどうするのか楽しみだなぁ。 「雨降りそうだし、僕帰りますね。では先生、また明日」  あっという間にダニエルは去って行った。アレクシィも帰ろうと立ち上がった。 「アレクシィ君、忘れ物ですよ」  アリスは折り曲げられたメモを渡した。先日、アレクシィが置いて行ったものだ。開いてみると、矢印して何やら書き足されている。     〈赤い猫、赤い髪〉   〈あなたのことが知りたい〉   〈↑どうして知りたいのか?     それを私は知りたい〉    アリスは何か期待している様な眼差しで、薄っすらと笑みを浮かべて、答えを待っている。 「どうしてって?好奇心というか、その…。例えば絵画を見たり、音楽を聴いた時、突然何か心を惹きつけられる事があるでしょう」  雨が降り出した。稲妻が光り、雷鳴が轟く。 「…つまり、雷に打たれた様に、ふいに湧き起こる感情」 「つまりそれは、雷の一撃、ですか?」  雷の一撃とは、フランス語で「一目惚れ」を意味する。アレクシィには、アリスがどちらの意味合いでそう言ったか分からなかったが、その一言は、自分の心の騒めきを的確に表しているのだった。  アレクシィは戸惑った様に顔を赤らめた。 「そう…ですね。雷の一撃」  落雷だろうか。物凄い音と共に地響きがした。店内の照明がチカチカと、点滅し始めた。  明かりが消えて暗闇になる一瞬一瞬に、アリスは彼にキスをした。頬、鼻の先に、軽く口付けする。明かりが付くと離れて、アリスは何事も無かった様に佇んでいる。  また暗くなり、今度は唇にキスする。チカチカと明かりが灯る。しかし、アレクシィの目の前にアリスはいなかった。空っぽの店内。忽然と消えてしまった。 「え…?アリスさん?」  突如、首筋にふーっと息をかけられ、アレクシィは飛び上がった。背後からアリスがひょっこり顔を出し、ニヤリと悪戯っぽく笑う。 「あんたは本当に、猫みたいな人ですね」  外の激しい雨が、扉や窓を打ちつける。稲妻が走り、ついに停電した。  闇の中、アレクシィは手で探る。アリスの肩に触れ、滑らかな首筋、柔らかな耳、さらりとした髪を辿る。彼女の息遣いが、その温もりが、直ぐ側にある。唇が触れ合った。アリスを手繰り寄せ、しっかりと抱き締めた。  もう、消えてしまわぬように。
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