Le chat rouge

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3. アイデンティティ  嵐の夜、停電した店内。その闇の中で、二人は口付けを交わした。頬は優しい吐息を、背中に回した手は、服越しに肌の温もりを感じ取る。アリスが食らいつく様に求めれば、彼は躊躇いがちに応じた。  アレクシィは胸やお尻には触れて来ない。アリスは、今までにない心地良さを覚えた。過去、何人かの男と試してみたが、それは違和感でしかなかった。自分が女として扱われる事に対する抵抗、嫌悪感。かと言って、女性が恋愛対象になることは一切無い。  このセクシャリティーの曖昧さについて、友人のシルヴィーが定義してくれた。身体は女性、心は男性のゲイだと。  シルヴィーは、本当の名をシルヴァンというのだが、女装の時には似合わないと思い、女性の名で呼ぶことにしている。彼も自分の性に複雑な事情を抱えている。彼はゲイで、女装の方が落ち着くが、心は男性寄りだという。  アリスは、この先へ進むのには不安があった。自分自身が彼を拒絶してしまわないか、或いは、彼がこんな自分を受け入れてくれるのか。    扉が開いた。懐中電灯に照らされ、二人は驚いて離れた。 「アリスさーん!心配になって、おじいちゃんと車で迎えに来たよ」 「ハヤト様、ありがとうございます。助かりました」 「あ!常連のお客さんもいらしたんですね」  アレクシィは何だか拍子抜けして、じっと固まっている。 「ええ。彼、雷に怯えてしがみ付いて来たんですよ」 「誰が!?怯えてなどいない!」  まぁ、まぁ、とハヤトがなだめていると、ルブランも懐中電灯片手に入って来た。 「ボンソワール、アリス。大丈夫だった?あれ?誰かと思いきやヴィオレィ君じゃないの」 「…?!理事長!」  苦手な人物のご登場に、アレクシィの顔が引きつった。 「おや?アレクシィ君はムッシュー・ルブランとお知り合いでしたか」  ルブランは嬉しそうにアリスに紹介した。 「ヴィオレィ君はねぇ、今年うちの学校に来てもらった唯一人のアグレジェ(1級教員)で、期待の新人だよ」  アリスは想像する。母校のあの教室で、彼の声が聞こえる。自分は生徒で、授業を受けている。科目は必須の哲学が良い。もし、フーコーの抑圧された性と自由ついての解釈を論じたら、彼は何と言ってくれるだろう?  ハヤトから懐中電灯を借りて、アリスは店の片付けと着替えを済ませた。外は強い雨が降り続いている。 「理事長とハヤト様は後ろに乗って下さい。アレクシィ君、家までお送りしますので、助手席で道案内をお願いします」  速やかに指示を出して、アリスは車を出した。思わぬ展開に戸惑いつつ、アレクシィは行き先を告げた。 「へぇー、君も7区ですか。私達の家と近いですね」  私達の?この三人はどういう関係なんだ?  ルブランとハヤトはお互い話に夢中であった為、アレクシィはこそっと訊ねてみた。 「アリスさん、理事長と暮らしているんですか?」 「そうですね。私達は家族みたいなものですから」  アリスは、店の近くに学生の頃から住んでいるアパートがあるのだが、現在ハヤトの家庭教師をしている為、ルブラン邸にいる事が多いのだと説明した。 「私の親のこと、ダニエル君から聞いたのでは?」 「あ…、はい」 「気の毒そうにしなくても大丈夫ですよ。金銭欲の塊の人間が、お金で人生を失敗る。因果応報。あの時私、清々したんです。彼らから離れられて」  脱税で両親が逮捕された後、ルブランがアリスの後見人となった。アリスは16歳だった。  ミシェル・ルブラン氏。大企業のCEOの右腕として活躍した経歴を持ち、経済界で名の知れた資産家でもある。サン=ジェルマンに店を出せたのは、ルブラン氏が出資したのだろう、とアレクシィは推測した。 「何故、グランゼコールに行かなかったんです?プレパ(グランゼコール準備級)入学は決まってたんでしょう?」 「敷かれたレールの上を走るなんて真っ平。私はジプシーに憧れているんですよ。渡り鳥のように自由に飛び回り、貧しくとも何だか楽しそうで。定住せず、どこの国の者でもないですが、彼らは彼らなのです」  アレクシィは始終、熱心にアリスの話に耳を傾けている。私のような者に関心を寄せてくれるとは。肯定も否定もせず、唯聞いてくれるのが嬉しくて、アリスは話を続けた。  親はアリスがピアノコンクールで優勝すればピアニストにしようとし、フェンシングで優勝すれば選手として育てようとした。それは会社の宣伝に、子供を広告媒体として利用しようという彼らの魂胆なのだ。マスコミに取り上げられると、親は金儲けを企み、周りの子達には「ブルジョワの成金娘」と揶揄された。 「私は、自分の将来を金儲けに利用されるのが、許せませんでした。だから、自分のやりたいように生きようと決めたんです」  アレクシィはアリスの生き方が羨ましかった。自分には到底なれない。〈自由に生きる人〉とは掛け離れている。家族は皆教師で、完璧な文法のフランス語を話し、数年前まで、毎週教会のミサへ通っていた。教会離れが深刻化する中、年々出席者は減り、ついに我々一家だけになった。保守的で化石の様な人々だ。 「アンヴァリッドの方まで行きますか?」 「いえ、その手前の交差点で左に曲がって下さい」  まだ雨は激しい。見える筈のエッフェル塔も、その姿をかき消されて霞んでいる。当分収まりそうにないですね、とアリスはハンドルを切った。  アパートの前で車を停める。アレクシィは天候に似合わない、晴れ晴れとした顔でお礼を言って、外に飛び出して行った。細長い足がパシャパシャと水飛沫を上げる。無邪気な子供みたいだ、とアリスは思った。ジャケットで頭を覆い、彼が駆け込んだエントランスには、シャンデリアの灯りが見えた。良かった、停電は6区界隈だけだったようだ。ほっとして、アリスはまた車を走らせた。  後ろからハヤトが話しかけた。 「ねぇ、アリスさん。あのお客さんと仲良かったんですね?話してるの、見た事なかったから」 「お互い、お喋りなタイプではないですからね。ですが、心は通じ合っていると思いますよ」    少し外に出ただけでも、結構濡れてしまった。アレクシィはタオルで衣服の水気を取ったが、諦めてそのまま洗濯することにした。  冷えた身体を温める為、シャワーを出しっぱなしにして体を洗った。目を閉じて、頭から泡を流し落とす。  初めて女とキスをした。闇に視覚を奪われ身体に残った感覚は、生々しく蘇る。みるみる情欲は膨らみ、圧迫されて苦しくなる。暴れようとするのを手で宥めてやると、呆気なく精液を放った。  私はゲイだ。女の裸を見ても興奮することは無い。なのにあの人は、なんて魅力的なんだ。    翌朝。すっかり晴れ渡った空に、湿った道をアレクシィは駆け抜ける。昨日カフェに寄って帰った為、学校に自転車を置き忘れていたのだ。  何とか午前の授業に間に合った。午後の授業は無いから、さっさと家に帰って休もう。  アレクシィが帰り支度をしていると、ダニエルがニタニタしながらやって来た。 「アレクシィ先生が遅刻しかけるとは、珍しいこともあるもんですね〜」 「昨日、自転車を学校に置いたままだったもので」  鬱陶しそうに答えるアレクシィに、ダニエルは耳打ちする。 「それで?昨日どうだったんです?あの嵐ですよ。ねぇ、彼女のこと抱いたんでしょう?」 「はぁ!?何を言うんですか!してませんよ、そんなこと!」 「本当かなぁ?あれは刺激的な女だからね。その辺の女とは違うのさ」  フフンっと笑って、ダニエルはランチに行った。  ダニエル先生は彼女の何を知ってるというんだ?あー、モヤモヤする。全く今日はツイていない。      ◆◆     ◆◆      ◆◆       ◆◆    定休日だったので、アリスは朝からブローニュの森まで散歩に出かけた。昨日の嵐が嘘の様に、平穏な風景が広がっている。  いつものベンチに、シルヴァン・エイメが腰を掛けて絵を描いている。花や鳥、ウサギ等、柔らかなタッチと色合いで、アリスは気に入っている。  彼は長いブロンドのウィッグを被り、エスニックなワンピースを纏っている。化粧はしていない。身体はごつく決して女性的ではないのに、それはとても美しく、よく似合っているのだ。 「ボンジュール、シルヴィー」  アリスは彼の隣に座り、足を伸ばした。 「やあ、アリスさん。何かあったの?」 「君は本当に勘が良いですね」  アリスはシルヴァンの描く孔雀の絵を眺めながら、自分に起きた出来事を何から話そうか考える。 「恋人ができたんですよ」 「そうなんだ。…大丈夫だったの?」 「彼は私を抱こうとしなかった。でも、キスはしました。優しく抱き締めてくれて…凄く良かった」  シルヴァンは微笑んだ。こんなに穏やかで、幸せそうなアリスさんを見たことがあっただろうか? 「ねぇ、愛のないセックスがあるなら、セックスのない愛だってあるでしょう?」 「うん、どちらも存在するよ」 「シルヴィー。フェラさせて」 「ええっ?彼氏がいるんなら、もうこういうのは止そう」 「今日で最後にします」  覚悟した様に立ち上がり、木陰の方へ歩むアリスに、シルヴァンはついて行った。寝そべっていれば茂みに隠れて、人が通っても見えない。  森でカップルが戯れるのは、日常茶飯事と言っても良い。しかし二人の関係は特殊だ。舐め合うだけで挿入やキスはしない。絶頂に至ることもしない。このルールによって、互いのセクシャリティーは保たれる。  アリスは彼のスカートを捲り上げた。あっという間に脚が剥き出しになり、下着が見え、その中に納まった性器の形さえも露わになる。男なら、女性のそういう姿にさぞかし興奮するのだろう、とアリスは思った。  これがアレクシィ君だったら、私は間違いなく興奮している。ああ、もっと辱めてみたい。下着をずらされたら、彼はきっと嫌がるだろう。それでも私は止めない。口に含んで尖端を舐め回す。それは次第に膨張し、そそり立つ。彼は身を捩って悶える。私はこの手で、彼を解放へと導いてやる。 「あっ…ダメだよ、アリスさん。それは約束と違う」  ハッとして、アリスは手を離した。 「すみませんでした」 「じゃあ、交替しようか」 「いえ、今回は自分でします」  シルヴァンは隣の木まで離れて自慰する。  アリスはその場で仰向けになり、行為に耽った。彼とのキスを思い出しながら。  私は彼に抱かれても構わない。いや、抱かれたいのかもしれない。      ◆◆     ◆◆      ◆◆       ◆◆    アリスと別れた後、シルヴァンは家に戻った。友人から急に電話が入り、会って話がしたいと言う。  ウィッグを取って短髪になり、男物の服に着替える。女装は好きではあるが、本当は出会う人にとって安心する格好が、自分にとって一番落ち着くのだと、最近になって分かって来た。  ポンデザールの橋からセーヌ川を眺めて待っていると、懐かしの友がやって来た。 「シルヴァン、久しぶりだな」 「アレクシィ!元気そうで良かった」  二人はコレージュ(中学)の同級生で、幼馴染みである。  何かあったの?とシルヴァンが聞くと、アレクシィは少し考えてから話し出した。 「…実は、好きな女ができた」  困惑しているらしいアレクシィに、「ゲイであることに縛られる必要なんてないよ」とシルヴァンは言った。  アレクシィは自分の中で引っかかっている問題を、話しながら整理して行く。 「…彼女とキスをしたんだ。最高の気分だった。だが、怖かった。俺は女を抱いたことがない」  最初は男だと思っていた。でも違った。それは別に構わない。俺はあの人が好きなんだ。しかし、彼女を女性として、どう扱えば良いのか分からない。その事で、愛想を尽かされるかもしれない。 「自分が女として見られてないと思ったら、傷付くよな?」 「人によるだろうけど…。愛されてると分かっていたら、大丈夫じゃないかな。愛されてないと思った時、人は傷付く」  今立っているこの橋には、かつて夥しい数のカデナ・ダムール(愛の南京錠)が欄干を埋め尽くしていた。一体どれだけの恋人達が愛を誓っただろうか。橋が壊れてしまう程の、愛の証。その重み。    ◆◆     ◆◆      ◆◆       ◆◆  カフェLe chat rougeの扉が開く度、アリスは振り返る。待ち望む人とは違った客でも、ボンジュールと言う彼女の声は、心なしか明るい。何か良いことあったのか?と訊ねる客もあった。  アレクシィが店に現れた。コーヒーを注文し、「この間は、どうも」と言う彼もまた、いつもと違い、綻んだ顔をしている。  特に会話はしないが、互いに視線を送り、目が合うと暫し見詰め合った。アレクシィは少し驚いた様に、あっ…と何か物言いたげな顔をして、アリスはそれが可笑しくて微笑む。  コーヒーを飲み干すと、彼は扉の方へ歩み、アリスを振り返った。 「アリスさん。あの……、また来ます」 「ええ、楽しみにお待ちしています」  仏頂面だった彼は、僅かに頬を赤く染めて、嬉しそうに出て行った。  アリスはテーブルを片付ける。カップの側には折り曲げられたメモが、今日も置かれていた。ドキドキして開けてみる。    〈それは真実である〉  〈私は確かに、あなたを愛してる〉    大事そうに、アリスはそのメモをエプロンのポケットにしまった。仕事中、ポケットの中で〈真実〉の存在感が、その重みを増して行った。    仕事を終えて店を出ると、アレクシィが壁に凭れて待っていた。 「…アレクシィ君」  予期せぬ再会に、ドクンと鼓動が鳴り響く。 「今日は私が、あなたを家まで送りますよ」  そう言って、アレクシィは自転車に跨った。思わずアリスは笑ってしまった。 「君、自転車が似合わなさ過ぎます」 「はぁ?自転車に似合うも似合わないも無いでしょう。さあ、乗って下さい」 「では、お願いします。今日は自分のアパートに帰りますので、君にはまた学校の方へ戻って頂く事になりますが」 「いいですよ」  カルチェ・ラタンを自転車が走る。アリスは彼の腰に手を回して、肩越しに夕暮れの空を見上げた。爽やかな風。賑わう市場。  大きな背中にそっと頬を寄せて、アリスは安心する。嬉しさにニヤけた顔を、彼に見られずに済むから。
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