一日目・七月五日

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 エンカステの市場(バザール)は、大きなものが二つある。  一つは、街の東側に位置する屋根付きの区画。こちらには主に、宝飾品や服、布地、雑貨などを扱う店が並んでいる。  もう一つは、街の西側に位置する広場。こちらでは主に、野菜や果物、肉や魚などが露店で扱われている。  食べないものが東、食べるものが西にある……と考えればおおむね間違いはない、はずだ。例外として茶葉や香草の店は東にあるが、これらは雨に濡れてしまうと都合が悪いからだろう。  東側には、香草茶や食事を出す休憩処もところどころにあり、買い物に疲れた足を休めることもできる。  けれど、今の私は、休憩処ですっかり消耗しきっていた。  胃袋がきつい。  一杯で軽い食事一食分になろうかというスープを、三杯も飲んだ後だ。きつくて当たり前だ。  けれどああ言った手前、残すわけにもいかなかった。おいしいものを残したくない、という気持ちもあった。それとなにより、昔から親しんだ店の人々を悲しませたくなかった。  結果として私は今、歩くたびにたぷたぷ音を立てそうな胃袋を抱えて、女神たる少女リア・ランテと共に神殿へ戻ろうとしている。  胃が落ち着くまで、少し休まないと辛い。幸か不幸か、リアもやや表情が晴れない様子だ。女神を休ませる名目であれば、出ていってすぐの帰還と休息も許されるだろう。 「そこの女神様ー!」  どこかの店から声がする。  そろそろこの呼ばれ方にも慣れた。普段の「お嬢さん」と同じことだ、気にせず流せばいい。  街路の両脇には、さまざまな物を売る店が所狭しと軒を連ねている。その多くが、混雑した道を行き交う女たちに「女神様」と呼びかけているのだ。そのたびに反応していては、耳がいくつあっても足りない。  と、思っていたのだけれども。 「私を呼んだ?」  不意にリアが立ち止まってしまった。青い瞳がヴェールの下で、声の方角をじっと見つめている。 「帰らないのか、リア」  声をかけつつ視線の先を見てみれば、宝飾品の店があった。店番の娘が、私たちへ向けて水晶の首飾りを掲げている。曇りひとつない透明な珠が連なった、なかなかに上等そうな品だ。 「おかわいらしい女神様に、よくお似合いの飾り物がございますよ」  娘が微笑む。店の前に据えられた木の机の上には、精緻な細工を施した水晶の耳飾りや指輪などが所狭しと並んでいた。透明なものだけでなく、紫水晶や薄紅の薔薇水晶も見える。祭りの間らしく、机の端にはラベンダーが一束結わえ付けてあった。 「これ、全部水晶?」 「あれ、もしやエンカステの水晶をご存知ない?」  引き寄せられるように、リアが宝飾品の机に歩いていく。  こうなると私は従うしかない。女神は女神の望むように振舞う。護衛にできるのはお守りすることだけだ。 「昔からこの街の水晶は有名ですよ。湖の女神の清浄と純潔の証、おひとついかがですか」  机の少し上で、リアの指はいくつかの飾り物を指しつつうろうろとさまよっている。その手を、娘が優しく包み込んだ。 「白くて綺麗なお指ですねー。でしたらこちらの指輪はいかがでしょう。深い紫が綺麗に映えると思いますよー」  言いつつ娘は、指輪を一つ手に取った。曇りひとつない金の地金に、大きな紫水晶が一粒と、取り巻く小さな薔薇水晶が八つ飾ってある。見事な細工物だ。  手持ちが足りるだろうか、と私は心配した。女神の街歩きに際して、必要になりそうな額は持ってきたはずだけれど、宝石細工を買うとなると少し不安がある。神殿に取りに戻れば資金自体はいくらでも出てくるけれど、一度戻ってお金を調達してくるなんて恥ずかしすぎる。場合によっては、水晶騎士団と神殿についてあることないことを言いふらされかねない。  懐の革袋に触れつつ、私はちらりと値札を見遣った。銀五十枚。おそらく少し足りない。  どうしたものかと考える私をよそに、娘はリアの人差し指に指輪を通そうとしていた。すぐ横に水晶騎士がいる以上、持ち逃げはないだろうと踏んだのか。大胆な娘だと思う。  リアの指先に紫水晶の指輪が触れた、その瞬間だった。 「……っ!」  急に、リアが指を引っ込めた。  はずみで指輪が落ちる。木の机の上を跳ね、通りの方へ転がっていく。 「あぁっ!!」  娘が叫ぶ。  雑踏に転がり込んだ指輪を、誰かの手が拾い上げた。  くたびれた服の少年だ。  少年は走り出した。人混みをかき分け、市場(バザール)の出口の方へ。 「待て……!」  追いかけようとした。  だが胃に詰まったもののせいで、思うように走れない。 「誰か! 誰か捕まえて……!!」  娘の悲痛な声があがる。  だが叫びも空しく、少年の背は人の波に消えていく。押し退けられた何人かがにらみつけたが、それだけだ。  私は歯噛みした。市場(バザール)の警備は何度もこなしている。普段より多いとはいえ、この程度の雑踏は苦にならない。せめて走れる状態なら、リアを見ている必要がないなら、この程度の距離ものともしないものを――  と思いかけた時、不意に別の叫び声があがった。 「放せっつってんだろ!」  若い、男の声だった。  続いて、甲高い男の悲鳴が上がった。 「おいやめろ! 何もしてねえよ!!」  同じ男の声が続く。人々が足を止め、ざわめきが広がる。しばらくして、人混みが二つに分かれ、その間から二人の年若い男が現れた。  一人は、さきほど指輪を持ち去った少年だった。もう一人は衛兵隊の制服を着た、やはり年若い男だった。衛兵は少年の腕を掴み、引きずるようにして私たちの方へと連れて来ていた。  衛兵は私の姿を認めると、片手だけで敬礼をした。 「水晶騎士様。こちらに心当たりはおありですか?」  衛兵が懐から取り出したのは、大きな紫水晶一粒と、小さな薔薇水晶八つがはまった金の指輪だった。  店番の娘が、甲高い歓声を上げた。 「それはこちらの店のものです」 「……ということは、やはりお前」  衛兵が少年の腕を捻り上げる。少年は蛙を潰したような叫び声をあげつつ、私の方をぎろりと見た。 「俺は盗んでねえよ! 落ちてたのを拾っただけだ……見てたんなら知ってんだろ!!」 「僕はなにも見ていない。けど、お前がこんな高価なものを、ただ持っているとは信じられない。証拠がなければ、盗品と判断せざるをえないくらいにね……証拠があるなら話は別だけど」 「ねえよ!」  衛兵が、ふたたび腕を捻り上げる。 「だから俺じゃねえって!」 「素直じゃありませんねえ。……でも万が一無実の罪なら、僕の寝覚めは悪くなりますね」  ふう、と衛兵は息を吐いた。 「水晶騎士様。もし一部始終をご覧になっていたなら、経緯をご説明いただけますか」 「一部始終ではないが、見ていたかぎりでなら」  私は一つ深呼吸をして、話し始めた。 「その指輪はこの店のもので間違いない。私と連れの娘が指輪を選んでいた際、通りの方に転がり落ちてしまったのだが、それをこの少年が拾って逃げたのだ」 「なるほど。お店の方、それで間違いありませんか?」 「はい!」  店番の娘は、深々と頭を下げる。 「なるほど。王国法では、道に落ちたものを拾ったとしても盗みの罪にはあたりませんね。ただ、拾ったものは持ち主に返すべし、との決まりもありますので」  衛兵は、店番の娘と少年、そして私を交互に見た。そうして、指輪を店の木机の上に置いた。 「この指輪はお返しします。以後、落とさないようお気を付けくださいね。……ところで」  衛兵が私の方を向いた。 「お連れ様がおられたのですか? その方は今どちらへ」 「どちらへも何も、今ここで私と買い物をしている……が」  言いつつ私は、傍らにいるはずのリアを見遣った。  瞬間、背筋に、冷たいものが走った。  私の隣に、誰もいない。  彼女が被っていたヴェールだけが、冷たい石畳の上、くしゃりと取り残されていた。  背筋に続いて、手足から、頭の中から、血の気が引いていくのがわかる。  あわてて私は周りを見た。だがリアの艶やかな銀色の髪も、湖水を思わせる上着(コット)の藍色も、目の届く限りの場所にはまったく見えない。  握りしめた掌に、嫌な汗がにじむ。  私はヴェールを拾い上げた。目の前の雑踏で、人々は相も変わらず賑やかに行き交っている。だがそれが、今の私にはおそろしく冷たく思えた。
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