一日目・七月五日

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 ここ「湖畔の街」エンカステには、女神カサリオティス様を祀る大きな神殿がある。  カサリオティス様の守護で栄える街なのだから、それは当たり前のことだ。鉱山都市(ガンタルティア)家畜の街(ムルミア)綿の町(スサンタ)も、そして王都(ウィーストビア)も、それぞれの守護神を神殿に祀っている。  神殿を見れば土地が分かると、旅慣れた者たちはよく口にする。それほどに、守護神の神殿は街の顔なのだ。  その顔を守っているのが、私たち「水晶騎士団」だ。  処女神であるカサリオティス様の神殿は、入口近くの拝殿を除いて男子禁制となっている。それゆえ、水晶騎士団は全員が女性だ。女神の神殿を外敵から守り、平時は女神に祈りと称賛を捧げる、それが私たちの役割だ。  とはいえ、その大元の使命は、長い年月の間にすっかり失われてしまった。  いま私たちの主な任務は、神殿参拝客の誘導、寄付のとりまとめ、出納管理といった内向きの仕事ばかり。現在この街を守っているのは、他の街と同様の衛兵隊だ。街と神殿の守護は、遠い昔に私たちの手から離れている。  警備の仕事もなくはない。けれど対象は比較的治安のよい大通りと、東西の市場(バザール)くらいで、それもほぼ形ばかりだ。スリやコソ泥程度なら、時々私たちで捕らえることもある。だがその先は、取り調べも罪の裁定も衛兵隊の仕事だ。私たちの出る幕はない。  一方で、華麗な衣装をまとった女騎士が表通りを規律正しく巡回している様は、街の人間にも来訪者にも評判が良い。  見た目の良い飾り物、それが私たちの役割だ。王都にいるような「本物の」騎士ではないのだ。  今の水晶騎士団は事実上、中流から下流の騎士が、娘に花嫁修業をさせる場となっている。処女神に仕える男子禁制の騎士団は「純潔」を印象付けるには最良だし、お飾りとはいえ武術も学ぶ。神殿の運営に携わる経験は、家や領地の経営にも役立つ。  近年は嫁ぎ先での評判も高くなり、王国全土から入団希望者が集まるようになった。私が子供の頃は、まだ半分くらいは地元(エンカステ)の人々がいたはずなのだけれど、いまや水晶騎士団に同郷の女子はほとんどいない。私と、あと片手の指で足りるくらいだったと思う。  どこか悲しかった。  エンカステで生まれ、エンカステで育ち、カサリオティス様への感謝と敬意を目にしながら育った私は、良縁のために功を競う同僚たちをどうしても好きになれなかった。  功といっても騎士らしい武功でなく、多くの寄付をとりまとめた、参拝の貴人をそつなく案内した、といった雑事なのがまた寂しかった。  私はそんな「功」を追いかける気はなかったし、神官長や書記官たちに自分を印象付けようともしてこなかった。  結果として私は、肩書もない末席の騎士のまま、二十歳になってもまともな縁談ひとつ受け取れずにいる。  私自身、その現状に不満があるわけではないけれど……けれどそろそろ、将来のことを真剣に考えなければならないとは感じていた。  そこへ降って湧いた、今回の話だった。  薄水色の外衣(サーコート)の裾を、少女女神の白い手が掴んで離さない。離してくれない。  窓から見える太陽は、湖水の上にずいぶん高く昇っている。そろそろ朝食の時間も過ぎてしまっている気がする。けれど、相変わらず裸のままの少女女神をここに置いていくことはできない。かといって、食堂にこのまま連れていくこともできない。  途方に暮れていると、不意にぐう、と胃袋が鳴った。 「今の音はなあに」  少女女神が首を傾げる。 「……私の腹の音ですよ。流石にお腹が空きました」 「食事が欲しいなら、食べてくればいいでしょう」 「そういうわけにもまいりません。私はあなた様の護衛ですから、放っておくわけには――」  そこで、私は一つの作戦を思いついた。 「カサリオティス様。何か食べたいものはございますか」 「食べたいもの?」 「百年前のご降臨の際、何かおいしいものは召し上がられましたか。よろしければご案内いたしますよ」  正直あまり期待はしていない。着ておられた服のことも覚えていないくらいだ、食事のことなど忘れているだろう。それに、人の食事が女神の口に合うかどうかも―― 「ああ、そういえば。あのスープはとてもおいしかった」  思わず、私は聖母神と湖の女神に感謝した。……いや、その湖の女神は、いま目の前にいる気難しい少女なのだけれども。  その本人は頬をわずかに桃色に染め、うっとりと話し始めた。 「前にここに来た時、振舞ってもらったスープはとてもおいしかった。もっと前から何度もここには来ているけれど、間違いなくあれが一番ね」 「それは……どのようなものでしたか?」  少女女神はわずかに首を傾げた。 「わからない」 「わからない……とは?」 「人間の食べ物のこととか、よく覚えてないから」 「でも、おいしかったのでしょう? 味や材料や、そういったことを――」 「忘れちゃった」 「全部?」 「全部」  どういうことなんだ。  普通の人間は、食べておいしかったと記憶しているのなら、おぼろげにでも味は覚えているだろう。細かな調味料や食材は記憶にないにしても、大まかな味付けや主要な具材くらいは答えられるだろう。  というより、味も具も覚えていないのに、なぜ「おいしかった」と思い出せるのか。よくわからない。  よくわからない……が、これは好機だ。 「でしたら探しに行きましょうか。カサリオティス様」 「探す……の?」 「はい。百年前のこととはいえ、そのようにおいしいスープであれば、誰かが作り方を伝えていることでしょう。幸い私はこの街の生まれです、食事処には詳しいですよ」  少女女神の目が輝き始めた。大きな青い目が、きらきらと力強く私を見上げている。  よし、作戦はうまくいっているぞ。 「またあれが飲めるのね!」 「はい。ですがカサリオティス様、そのためにはまず、身体を隠すものを着ていただかなければなりません」  目の光が見る間に去った。銀色の髪を揺らして、少女女神がうつむく。 「あれは気持ち悪い」 「申し訳ありませんが、そこはしばらく我慢していただかないと。副団長がいま資料を調べております。調べがついたら替えを用意いたしますので、それまでこちらを着ていていただけますか」  神官長から受け取ってあった下着(シュミーズ)上着(コット)を、私は少女女神に示した。上着は湖水を思わせる藍色に染め上げられ、少女女神の白い肌に映えそうだ。 「どうしても、着なければだめ?」 「身体を隠すのは、人の世の決まりごとです。いかに女神様といえど、人の姿をとられるからには、人の掟には従っていただかないと」  今にも泣きそうな顔でうなだれた少女女神が、私の外衣(サーコート)から手を放す。  そうして、とうとう、かぼそい声で言った。 「……着せて」  私は無言で、深々とお辞儀をした。  まずは生成(きなり)色の下着(シュミーズ)を、頭から被せる。白くて小さな乳房が、ほっそりした脚が、布地の下に覆い隠される。……ほんの少し、惜しい気もする。  その上から、上着(コット)を着せかける。上半身と下半身がひとつながりの、袖なしのワンピース様の服だ。……実のところ、刺繍をたっぷり施した付け袖も何組か用意してあったのだけれど、それは多分付けさせてくれないだろう。 「さ、できあがりましたよ」  私はあらためて、衣服をまとった少女女神を眺めてみた。  こうしてみると、最初に思ったよりは美しいと思う。顕現のときは期待しすぎていたせいか、落胆の方が先に立ってしまったけれど、人間の基準でいえば十分に美人だ。目鼻立ちもしっかりと整い、肌には染みもにきびもない。この姿の娘が街を歩いていれば、二人に一人くらいの男は振り向くのではないかと思う。 「……やっぱり、気持ちが悪い」  銀色の髪を藍色の布地の上で揺らし、少女女神はもじもじと顔を赤らめている。……不敬の極みながら、もう少しいじめてみたい、などと一瞬考えてしまった。 「あとは頭に被るヴェールですね。あとで神官長にもらいに行きましょう」 「まだあるの!?」  朝焼けの湖水のように、少女女神は顔を真っ赤にする。  可愛い。……考えてはいけないのだろうだけど、可愛い。 「はい。ヴェールを被るのは淑女のたしなみ。これもまた人の世の決まりですので」 「決まりごとが多すぎる……」  口をとがらす少女女神の手に、私はそっと自分の手を重ねた。 「さ、それでは行きましょうか。おいしいスープ、飲まれるのですよね?」  屈んで目線を合わせ、できうるかぎりの笑顔で微笑みかける。  朝焼けのような頬のまま、少女女神はゆっくりと、泣きそうな顔で頷いてくれた。
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