一日目・七月五日

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 ここ湖畔の街エンカステでは、十年に一度「報恩祭」が行われる。  湖の女神カサリオティスの恩恵に感謝し、威光を讃える祭だ。七月の五日から七日の三日間、大通りは女神の清浄を表すラベンダーの花で飾られ、中央広場には女神を讃える(やぐら)が組まれる。神殿は参拝者であふれ、市場(バザール)や旅籠も旅人たちで大いに賑わう。  最終日の七日には、広く知られた「水かけの祭」が大通りで行われる。人々は聖別された水を神殿で受け取り、道行く相手に浴びせて回る。浴びせた者と浴びせられた者は、共に「女神の祝福を!」と言い合うのがしきたりだ。そうして、女神の恩寵は民にあまねく分け与えられるのだ。  そして、十年が十度過ぎるたびに「降臨祭」が行われる。  この時には祭の名のとおり、女神カサリオティスが人の姿をとって降臨するとされている。顕現した女神へ、街の繁栄を示し感謝を伝える、名実ともにエンカステ最大の祭りだ。  とはいえ住民たちには、降臨した女神がどこでどうしているのかは伝えられない。それは神殿関係者だけの重要な秘密であり、決して漏らしてはならないと定められている。  実のところ住民たちには、女神が本当に降臨しているのか怪しむ者も多い。私も水晶騎士団への入団前は、女神が百年に一度人の姿をとるなんて、ただの言い伝えではないかと思っていた。  だが、たとえ内心で疑っていたとしても、それを公言するのは禁忌だ。  本音はどうあれ街の人々は、降臨祭の間中、街を歩く見覚えのない女性皆を「女神様」と呼ぶ。女神がどこにいるかわからない以上、道行く誰もが女神かもしれない。だから、すべてを敬う――それがエンカステ市民のやり方であり、訪れる旅人たちの称賛の的となっていた。  そうなのだ。  だから、特に珍しいことではないのだ。  傍らの少女の正体がばれているわけでも、私が何かへまをやらかしたわけでもないのだ。 「お持ちいたしました、女神様」  休憩処の給仕にそう呼びかけられるのは、祭の間ならごくあたりまえのことなのだ。 「ありがとう!」  少女女神が呼びかけに反応してしまっても、否定する方がおかしいのだ。  今、この街では全ての女が女神なのだ。市中に顔が知れ渡っている、私たち水晶騎士団や神殿の関係者以外は皆。 「ラベンダー茶のおかわりとトマトスープです」  給仕は、少女女神の前に木の深皿と白磁のポットを置いた。大きな皿には赤いスープが半分ほどまで満ち、かすかに湯気を上げている。真ん中には香草の粉がわずかに散らされ、透き通った玉葱が数片沈んでいるのも見えた。  私は懐の革袋から、銀貨一枚を取り出し給仕に渡した。  少女女神はさっそく匙を手に取り、目を輝かせながら一口啜った。 「どうだ、リア」  神官長が用意した偽名を使って、私は少女女神に話しかけた。  日頃穏やかな街とはいえ、住民のすべてが善人というわけではない。女神の所在を隠す意味で、偽名を用いるのは仕方ないとわかってはいる……いるのだが、「リア・ランテ」は少々地味すぎないだろうか。水晶騎士が護衛についている以上、石工(ランテ)の娘では通せないのだから、もう少し垢抜けた名前の方が良かったように思う。  考える私の前で、女神――少女リア・ランテはゆっくりと首を振った。 「これじゃない。……あげる」  言って、木皿をずいと私に寄せる。そして、出てきたばかりのラベンダー茶を手元のカップに注いだ。 (……まいったな)  私の目の前には、既に二つの深皿がある。一つには香草入りのチキンスープ、もう一つには野菜のポタージュが入っている。どちらも、私が子供のころから親しんでいる絶品の味だ。濃くて量もあり、激しい訓練のない日なら、朝食はこれらの一杯で十分なほどだ。  私の知る限りでは、この休憩処「子供カワセミ亭(The Kiddy Kingfisher)」が、エンカステで一番おいしいスープを出す。東の市場(バザール)で昔から親しまれている老舗で、住民の評判もすこぶるいい。香草茶とスープなら、まずここを勧めておけば間違いはない……はずだったのだけれども。  目の前に並ぶ皿たちに、少女女神はそれぞれ一口しか口をつけなかった。どれも即座に、違う、と言って。 「これでもないのか……似た味でもなかったのか?」  立場を隠すため、あえてぞんざいな言葉で話しかける。  女神――リアは一息にラベンダー茶を飲み干すと、ふう、と深い溜息をついた。 「全然似てない。たぶん、ここのお店じゃないと思う」 「そうか」  私も、リアに負けず劣らずの深い溜息を吐いた。  そうして、トマトスープを一匙掬って口に入れた。 (おいしいじゃないか……)  トマトの酸味に、香草のつんとした香気がかすかに混じっている。しばらくして酸味が落ち着くと、鶏肉の旨味がじんわりと口の中へ広がってきた。子供のころから変わっていない、東の市場(バザール)を象徴する味だ。 (これもだめだとすると、いったいどんなスープなんだ……)  休憩処は他にもいくつかあるが、スープの品揃えはどこも似たようなものだ。子供カワセミ亭のスープがどれも「全然似てない」なら、他の休憩処へ行っても意味はないだろう。  とすると、次にあたるべきは旅籠や居酒屋なのかもしれない。でも、女神は百年前にそんなところへ行っていたのだろうか?  などと考えながらリアの方をちらりと見ると、傍らにさきほどの給仕が立っている。赤い上着(コット)に綿のエプロンを着けて、困ったような顔をして私を見つめていた。 「こちら、お飲みにならないならお下げしますが」 「あ、ああ……いや。私が飲む、置いておいてほしい」  給仕はさらに眉根を下げて、言いにくそうにしながら言った。 「できれば、早くお願いしますね……『降臨祭』の間は、お客さんがたくさん来ますから」 「そうだな、すまない。できるだけ早く飲み終えるようにしよう」  そう伝えても、給仕は去らない。 「まだ、何かあるのか」 「こちら……おいしくないですか」  申し訳なさそうな給仕の顔に、胸が痛む。 「ああ、いや……こちらの娘が、昔飲んだのと同じスープが飲みたいと言っている。この店はだいぶ昔からやっているし、品揃えも良いからここなら間違いないと思ったんだが」 「確かに、うちは三十年くらいずっとここでスープをお出ししていますが」  三十年か、だとすると少し最近すぎたかもしれない――そう考える私の前で、給仕はリアの前に屈み込んだ。  給仕の視線と、リアの視線が同じ高さで合う。 「女神様」  給仕は言った。 「うちのスープ、お気に召しませんでしたか?」  リアは、ぴくりと身を震わせた。  そうして、給仕から目を背けるように、私の方を見た。 「……わからない」 「わからない?」  リアは小さく頷いた。 「わからないけど……少し、苦しい。このあたりが」  言いつつ、リアは胸のあたりを白い手で押さえた。 「胃、ですか?」 「わからないけど……なんだかこのあたりが、気持ち悪い」  ふう、と、給仕は息を吐いた。心なしか表情が和らいでいるようだ。 「でしたらきっとお腹が弱いんですね。肉や魚を食べると、お腹が苦しくなってしまうお客さんもいますから……お出ししたスープには鶏のだしや鶏肉が入ってますし、気持ち悪くなる方はなるのかもしれないです」  話しながら、給仕は何度も大きく頷いていた。 「味が悪いわけではなかったんですね。よかったですよ」 「それはない。私が保証する」  私が言えば、給仕は深々と頭を下げた。 「水晶騎士様にそう言っていただけるのは光栄ですよ!」 「水晶騎士とはいえ、私はもともとこの街の生まれだ。子供のころから、ここの主人には世話になっているからな」  店の奥を見れば、禿頭の男が一人、大鍋の前からちらちらとこちらを睨んでいる。 (すまなかったな)  右手を胸に当て、水晶騎士団の敬礼の姿勢をとれば、主人は目を細めて鍋に目を落とした。  私は、あらためて給仕に向き直る。 「ともあれ、心配させてすまなかった。この三杯は間違いなく私が飲み切る。一度にこれだけ堪能できるのは幸せだよ」  言いつつ私は、若干の不安を感じていた。 (具も入ったたっぷりの三杯……本当に飲みきれるんだろうか)  考えごとを振り切るように、木の匙でチキンスープを掬う。飲み始めた私を見届けて、給仕は笑顔で去っていった。
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