9 伊月と那月

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 黙ったままだった伊月が立ち上がる。ゆっくりとした動きで那月の隣に座り、ベッドがぎしりと音を立てる。  伊月は那月の頬に触れると真剣な顔をして目を合わせた。  優しく触れるこの手が大好きだった。この手に何度も引かれ、助けられてきた。  泣きたくなる気持ちは残っていないと思っていたのに、伊月の熱が頬に広がって安心したのか目に涙が滲んだ。堪えることができずに流れたそれは、頬を伝って落ちていった。 「つらい思いさせたね」  やっと口を開いた伊月はそう言って那月を抱きしめた。こうやって抱きしめられるのはいつ振りだろう。  この人が大好きだった。この人に許されたかった。あの日から、優しくされるたび責められているようで胸が痛かった。 「ごめんなさい……」  今更謝っても何の意味もない。だけど止められなかった。伊月に抱きつき肩を震わせる。後頭部に添えられた伊月の手が優しく髪を撫でるのを酷く懐かしく思う。 「横山くんが好きなの?」  伊月に聞かれて那月は頷いた。理央が好きだ。いつまでも穏やかな二人だけの時間を重ねていきたい。だけど時々不安になる。一緒にいるのは大人になるにつれて難しくなる。その時自分は、理央は、どんな決断をするのだろう。  背中に触れる伊月の手が温かい。この手はいつでも背中を押してくれた。 「那月なら大丈夫」  伊月の言葉には絶対的な安心感がある。伊月が言うならきっと大丈夫なのだろう。 「ありがとう、お兄ちゃん」  いつも味方でいてくれて、限りない愛を与えてくれた。だからもう大丈夫だ。十分受け取った。これからは自分が与える番だ。  顔を上げると伊月は那月の頬の涙を指で拭い柔らかく笑った。伊月はいつも穏やかだが、その表情は久しぶりに見た気がした。 「今度、理央くんのことちゃんと紹介するから会ってね」 「わかったよ」  涙は全てを洗い流す。苦い記憶もいずれ消えていく。それでも、伊月に貰ったものは覚えていたい。ちゃんと自分の中に残しておきたい。  十六歳最後の日、那月は懐かしい温もりの中で未来を願った。
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