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二
二
僕は昨日と変わらぬ中庭のシロツメクサの様子を確認し終えると、満足してうんと頷き、腰をあげた。今度は校庭だ。校庭にも、シロツメクサがある。
校庭のシロツメクサは、時々踏み荒らされている。可憐に咲く、弱々しい花を、もし故意であるとしたら、その人物はなんと残忍な心の持ち主であろう、と、いつもそう思う。でも、僕にできることなんてせいぜい、その健気に咲く花を毎日こうして見守ってやることくらいなのだ。
自己紹介が遅れたようだ。
僕の名前は西山(にしやま)ガイ。ガイ、とカタカナで書く名前は珍しいかもしれない。僕は、珍しいのは嫌いじゃないので、この変な名前もそれほど厭わしいとは思わない。ただ、クラスの名簿に並べられると、やはりひとつ浮いている。目立つのは好きじゃないので、それと合わせてプラスマイナスゼロといったところだろうか。——でも、生きものは皆個性があってこそ、生きものなのだ。
人間なら分かりやすい。みんな、似ている人があろうと顔が違う。ひとりひとり運動能力が違うし、絵がうまかったり、人間観察が得意だったりする。
でも、シロツメクサだって違うんだよ? 知ってた?
一つ一つ花弁のつき方が違うし、何より一瞬後にはさっきと違う表情を見せたりする。だから、植物は生きものなのだ。
自己紹介の続きをすると、僕は帰宅部所属、しかも部長である。ここでいちいち読者のつっこみに答えるのも面倒なので、こちら本位で説明を続けようと思う。
つまり帰宅部とは、ここ暮丹(くれたん)高校の伝統であり、由緒正しい格式ある非公認部活動なのだ。とは言ってみたものの、僕自身、帰宅部などというものの存在には最も懐疑的である者のうちの一人だ。僕は、いつの間にか部長にされていた。帰宅部の活動内容は——帰ってはならない。日が暮れるまで、家路を辿ることは許されない、よって、暇つぶしの天才のみが、帰宅部に所属することができる。その点においては、僕はたしかにスペシャリストを自称して構わないのかもしれない。何故なら、いつもこんな風に放課後は生命の観察に余念がないのが、僕という、少年の心を持った高校生だからだ。
帰宅部の話はこれくらいにしておこう。どうせ、再来年には消えてなくなる伝統だ。伝統は消滅して尚、伝説となるやもしれないが、それは僕の感知するところではない。帰宅部の後継ぎなど、僕は見つけも指名する気もないのだ。
とりあえず、そういう事情があるから、僕は日が西に沈みかけた、人通りの少ない田舎駅から伸びる舗道を歩いていた。そんな時、不思議なことが起こった。
目の前に光が満ちる。
こうだけ言えば、何かこれが神秘的な現象に思われるかもしれないが、僕にとってまだそれは、ちょっとだけ訝しいものでしかなかった。何もない場所が光輝くなんて、十分変だ。でも、それ以上の何ものでもない。
ただ驚くべきことに、その光のベールは言葉を発した。そこで僕は初めて、この光輝く物体が生命体であり、しかも言葉を話すものは人間だけであるから、それが人間だ、と認識してふつふつと興味を湧き上がらせた。
立ち止まって、ゴクリと唾を飲み込む。もう目を離すことも出来ずに、僕は息を呑んで、そのベールが次第に形づくられていくのを注視していた。それは思った通り、人の形をした光の塊となって、次にはその陰まで露わになっていった。
「あなたが、西山ガイですね?」
ゴクリ、と唾をのむ。
「私の名前は……たしか、東堂(とうどう)です。東堂と名乗っておきましょう」
それは、人間の男だった。身長がやたら高い。二メートルはあるだろう。僕は視線を上下させ注意深く彼を観察し、話し始めてからは口元の動きに注目した。
「もう一度聞きます。あなたが、西山ガイですね?」
さっきと全く同じトーンで、同じ口のモーションで、彼は僕の目を怖いくらい的確に見つめた。人見知りの僕でも、こうなっては本能的に視線を背けることができず、そのうちに首の後ろが痛くなってきた。
「は、はい……」
「そうですか、あなたが。では、説明しましょう。手っ取り早くね。——あなたに『黒いイナヅマ団』と呼ばれる悪の組織を壊滅させる指令を与えます。そのために、あなたに力を授けましょう」
光の男はまだうっすら光沢めいている。訳の分からぬことを冷淡に言うあたり、僕にもちょっと自信が持てなくなり始めていた。——彼は、果たして生きているのだろうか。
「これをお持ちなさい」
そう言って東堂とやらが渡したのは錠剤のカプセルのようなものだった。半分オレンジで、半分白い。これを飲め、と言うのだろうか。
「それを指で割ってください」
なるほど、割る、ときたか。しかし、僕がそう見ず知らずの不審なお前の言う通り従順に動くと思うか?
「えっ、あの……」
「いいから、さあ」
東堂は、かなりの面倒くさがりやらしい。僕の腕をギュッと掴むと、乱暴にカプセルを割らせようとする。僕は反射的に抵抗したが、その弾みに少し力が入っただけで、脆くもカプセルは砕け散った。
ふわり、と宙に浮く感覚がする。景色が上下逆さまに反転して、せわしくグルグルと回り始めた。そう思ったら、もうすぐあとには、僕はやはり五体満足に舗道の上に立ち尽くし、眼前には東堂のみぞおちがあるのだった。
「あれ……?」
不思議がる僕を見て、東堂はフムフムと頷いた。
「では、次のステップに移りましょう。そこの電柱を殴ってみなさい」
たしかに、そこに電柱はある。しかしそれを殴れと言うのは、僕の拳を痛めつけるのが目的だろうか。まさかそんなはずもあるまい。
僕は東堂の無表情を見て、渋々を装うことを忘れずに電柱の側へ歩み寄った。
「こうですか?」
コン、と当てるだけのつもりだった。電柱を殴れ、と言われて全力でこのコンクリートと拳とを戦わせようと思う奴なんていない。しかし、予想外だったのは、その音だ。夜の電柱に手を当てたら、音もなくひんやりとするのが世の道理だ。それが、摩擦の熱のような感触を伴って、ドゴォといった擬声語でもってくぼんだのだから、僕は驚いてすぐに手を引っ込めた。だが、くぼみは元には戻らない。
「成功ですね」
うろたえる僕を尻目に、東堂は初めて表情を変えた。
「こ、これ……」
「あなたに渡したのは、『モークシャ・カプセル』と名付けられたものです。これを割った当人は、自らの秘められた力を解放することができる。すなわち、今の力はあなた自身の内に眠る力なのですよ」
「僕、自身の……」
僕はくぼみを見やって、その次に、『当てた』右手の握りこぶしを眺めた。僕の指には白色の粉がまぶっていて、少し焦げがついている。
「『奴』は力を与えましたが、『主』は人間に元々備わった潜在能力を解放する点に着目されたのです。この方が負担も少なく、実に合理的だ」
僕は訳も分からずに「はあ」と頷いた。
「あなたはこの力をもとに『黒いイナヅマ団』と戦わなければなりません。それが『主』があなたに与える使命なのです」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「はい?」
「使命って……そんな一方的に言われたって……」
「私の『主』は、あなた方が呼ぶところの『神』なのですよ?」
「なっ……」
と、声を詰まらせて、僕は絶句した。まさか神なんてものが本当にいるなんて! そして僕は、今正真正銘、神よりの使命を受けているというわけだ。でも悪いが、僕は誰にも命令なんてされたくはない。この命は、僕の命だ。誰かがズケズケと、僕の生活の内に入りこんできていいはずがない。
「せっかくだけど……僕はいりません。そんなカプセル。『黒いイナヅマ団』かなんだか知らないけど、僕、戦うつもりもないし……それじゃ」
僕は急いで立ち去ろうとするのに、どうしても体が動かない。すぐに思い当たって、キッと東堂を睨んだ。
「あなたでなくては駄目なのです。代わりはいない。……無理なお願いだとは承知しております。しかし、このままでは人類が……」
「人類が?」
「人類が滅びてしまうのですよ? それでもいいのですか?」
僕は、ヒーローもののアニメが苦手だ。何故なら、ヒーローが必ず勝つからだ。昔は、単に自分は悪役が好きなんだ、と思っていたけれど、そのうち違うって気がついた。僕は正義のため、と言って悪の芽を摘み取るヒーローのことが、どうしても許せなかったのだ。博愛主義なんていいもんじゃない。ただ、大義名分、っていうのが嘘くさくて仕方がないのだ。だから『人類を守る』ために戦えなんて言われれば、僕はそそくさと(不可能だが)この場からの退散を決め込んだだろう。が、彼は僕が戦わなければ、人類が滅びるのだと脅迫する。もしそういう事情があるならば、僕はヒーローたちに同情しよう。選ぶことを許されなかった、悲哀のヒーローよ、君は本当は戦いたくないのだろう、と。
「どちらにしろあなたに選択権はありません。……ではまた日を改めて」
東堂は僕の返答も待たず、すうと姿を消していった。
そう言えば、いくら人通りの少ない田舎駅前通りとは言っても、人の一人や二人常に通りがかるものだが、東堂が姿を現す間、野良猫の一匹も見えなかった。僕がしばらくそこに突っ立っていると、仕事帰りの眼鏡をかけた男が、僕の袖を横切っていった。すると続けて、キャリアウーマンが、後ろを振り返るともう二、三人こちらへ向かって来ている。
何、東堂の不思議な力を数え上げれば、こんなのは四、五番手で、きりがない。それでも僕は、この時はまだ東堂が神の使いであるということを半分信じて、半分疑っていた。
次の日の朝、僕は朝早くから起き出して、落ち着かなくなって、家を出た。
モヤモヤしながら家に居ると、家中にモヤモヤがたまりこんでしまうのだ。外に出れば、少しは圧迫感も減るものの、僕の輪郭にはやはり、モヤモヤ臭が染み付いているのだった。
ちなみに、週末の午前中に僕が外へ出かけていくのは、特段珍しいことではない。習慣としてあるから、母親から大した咎めも無い。そして身内は、近くに暮らす血縁の、気持ちを推し量る能力に驚くほど欠けているらしい。今日の僕の様子を何ら変わった風もなく受け入れるということは、よっぽど僕がポーカーフェイスであるせいか、そうでなければドがつく鈍感に違いない。
ポーカーフェイスと言って思い当たる節といえば、僕はできるだけため息をつかないように心がけている。そのせいかもしれないが、僕の中に鬱憤は溜まるばかりだ。いやきっとため息をつけば、もっと酷くなるだろう。——とにかく、早く花に会いたかった。
徒歩五分で公園までやって来ると、僕は直線に花壇へと向かい、その側に腰を下ろした。僕の視線の先には、健気なマリーゴールドが居る。それが、朝の涼しい風に吹かれて揺れる姿につられて、僕もユラユラと揺れてみた。
手に持ってきたジョウロに、公園に流れる川の水を汲む。誰もいない小さな公園の、片隅で僕はじっと水流を眺めるのだった。そうしていると、我も忘れて、無意識に水をやった。葉っぱが水滴をちょん、とはじいてそれがフカフカの土に落ちた、染みる。——これが僕の心の病に対する、いちばんの特効薬だと、僕は知っていた。
夢中になっていると、不意に肩に何か当たった。掌で二度、叩かれたのだ。
振り返ると、見慣れた顔がある。クラスメイトの紅葉(もみじ)すばるだ。彼の名は初めてクラスが同じになった中学の時に、真っ先に記憶した。何しろ名前が『すばる』とひらがなときた。親近感を覚えて、クラス表の名簿欄に目がとまったのだ。だが、彼は後にまた違った形で僕の印象に残ることとなる。決していい印象ではない。彼は、僕のことがどうやら気に入らないみたいなのだ。事あるごとに僕の行動に毒を吐く。そんな彼に僕が好印象を持つはずもない。
そんなすばるが、この公園に来て僕に声をかけた。家が近いから、偶然出くわすことは珍しくないにしても、彼が僕に自ら話しかけようとするなど、到底あり得ないことであった。
「また水やりか」
しかし、彼はいつもと同じ調子だ。僕が校庭で観察をおこなっている時も、こうして悪言を吐きかけてくることがある。どうやら今日は、ただのその延長線上であるだけのようだ。
「何か悪い?」
「男のくせにナヨナヨ植物なんか育てやがって……いや、今日はそんなことを言いに来たんじゃあない」
突如転調したすばるに、僕は身構える。
「お前、昨日会っただろ? ……変な奴に」
変な奴? 昨日会った変な奴、心当たりは一つしかない。しかし、信じられない気持ちがあって、僕は気づけば首を傾げていた。
「ほら、何か変な……光の中から出てきてさ」
『光』という言葉に僕は思い当たったようなフリをして「ああ」と声を出した。
「やっぱりか」
「会ったけど、それが?」
「それが? って……」
僕の態度に困惑する様が、ありありと見える。無理もない。僕だって逆の立場でこんな反応をされれば、気持ちのやりどころに困るだろう。でも僕は不思議と、極自然に光の人間、東堂のことなど大した出来事ではないかのように振る舞うのだった。
「オレ……全部お前に詳しい話は聞けって言われて。何なんだよ、『黒いイナヅマ団』って」
そういえば、敵の組織の名称はそんな感じであったか。だが、何であろうと僕には関係ない。
「関係ないよ」とその時は思った言葉が、素直にそのまま出た。
「関係、大アリですよ」
どこからともなく、エコーのかかった声が響く。僕は唇をキュッと結び、辺りを見回すのを堪えた。
すぐにまばゆい光が、僕らの脇で巻き起こった。昨夕と同じように、それは徐々に人間を形作っていった。すると、僕のマリーゴールドが、本当に金色に見える瞬間があった。
「西山ガイ、紅葉すばるに説明をなさい」
「昨日も言ったけどさ、」
僕は思わずため息をついて、立ち上がっていた。
「僕はそんなの知らないって。他の人に頼みなよ。他に強い人いっぱいいるよ」
「あなたはまだ分かっていないようですね。事の重大さが。……いいですか? あなたは主に選ばれたのです。他などいない。主が選ばれたのはあなたなのです。そして、それに付随する形で紅葉すばるも選ばれた」
「オレはこの草食動物のオマケかよ」
すばるは不快感を露わにしているが、そんな次元の話ではない。とんでもない。ここで断らなければ、どんな恐ろしいことが待っているか、というより、何もかもを受け入れられない。この東堂という男、図々しいにも程がある。神の使いとはみんなこうか、と僕は段々腹立たしかった。
「人類の危機なのです。あなたたちはそれを、何食わぬ顔でやり過ごそうというのですか?」
ああ、人類なんて喜んで見捨ててやるさ。そう言いたいところだが、僕はすばるの応答に目と耳を疑った。
「どうやって立ち向かうんだよ、その『黒いイナヅマ団』ってやつに」
相手に機会を与えてはならない。相手の要求を呑まぬよう気をつける上で、絶対相手に隙を見せてはいけない。それなのにこのバカすばるは、東堂の説明のための余地を設けたのだ。
「それは西山ガイが知っています。……本当は、私は二度同じ説明を繰り返したくない質なのですが……仕方ありませんね。これを割ってみなさい」
東堂がカプセルを取り出したところで僕はすかさず、「これを割ったら自分の力を解放できるんだよ」と心持ち早口に述べた。東堂の手伝いをしたのではない。同様のことが、今目の前で繰り返されて、おそらく同様に驚くであろうすばるを側で眺めることを予測して、飽き飽きしたのだ。
僕はプイッと顔を背けた。そこにちょうど、マリィが少し首をもたげて変わらず居た。
「そうです」と東堂はカプセルを閉まった。そして代わりに袋詰めの五個入りを僕とすばるにそれぞれ手渡した。
「このモークシャ・カプセルは、主が丹念につくりあげた製品ですから、無駄にしないように。あと、『黒いイナヅマ団』討伐以外の目的には使用してはなりません」
東堂は少し間を置き、
「明日、東京に発ちます。『黒いイナヅマ団』の本部を叩き、リーダーである『ナマステ』を倒すのです」
僕らはもうあまりの強引さに、口をポカンと開けて見ているしかなくなった。ほら見ろ、隙を見せれば、こうしてうまくこいつの口車に乗せられてしまいそうだ。僕は明日には、このカプセルを割って、通常より強くなって、敵とやらと戦っているのだろうか。何て間抜けな未来なのだろう。
「ちょっと待ってくれよ!」
「それではまた明日、この公園に来てください」
東堂はまたスッと消えた。いや、逃げ出した。卑怯だ。ずるい。
残された僕らはしばらく呆然としていた。気まずいのとは違うが、目線が合うとすぐに逸らした。
袋をポケットにしまい、すばるは何も言い置かず立ち去った。僕はその後ろ姿を見送るのにも途中で飽きて、しゃがんで膝を抱え、マリィの花弁をちょいとつついてみるのだった。
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