【ニ】

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【ニ】

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆  今から話すのは、いまから10年以上も前の話。  私が17歳の話ですわ。  その頃の私はアルバイト先の先輩と付き合っていました。先輩の名前をAといたしましょう。  Aは厄介な客から職場の仲間をさりげなく遠ざけて、人が嫌がるシフトや仕事をみずから進んで入ってくれる仏のような人でした。  彼がバイト先でどのような活躍をしたかは割愛(かつあい)しますが、みんなA先輩が好きで、A先輩を尊敬して、A先輩に感謝をささげていました。  そんな先輩と付き合えるのですから、17歳の私は舞い上がり、飛躍してAと新婚生活を夢見るほどでした。  笑顔が素敵で、話す内容が幅広く、気遣い上手な、まさに理想の彼氏。  ファーストキスを捧げた場所も時刻も、今も鮮明に覚えています。  えぇ、井上さん、本当ですよ。19××年、8月9日 日曜日の午後3時46分、近所の公園でベンチに座りながらクレープを食べあっていた時です。口になにかついていると言われて、不意打ちで唇を奪われました。噴水がたてる水音や鳩とセミの鳴き声すら、ちゃんと私の脳は記憶しているのです。  記憶力が良いのが、その頃の私の自慢でした。  さて、話をもどしますが、そんなAにも短所がありました。  待ち合わせによく遅刻するのです。私は5分前に待ち合わせにつくのですが、Aは持ち合わせの時間にいつも5分遅刻してくるのです。  Aに対する恩と尊敬と恋心から、5分遅刻するなんて些細なことではありましたし。  むしろ、完全無欠のAが私の前で5分遅刻することに、なんだか私しか知らない秘密を明かされたような気がして嬉しかった記憶がありますわ。    ですが、何度も遅刻をしてくると、だんだん気になってしまいます。  なぜ遅刻してくるのか。しかも、なぜきまって「5分後に」遅刻してくるのか。  その日の待ち合わせは、競技場が近くにある公園の入り口でした。  はじめて行く場所でしたので、粗相(そそう)がないようにいつもより早めに家を出て、30分前に待ち合わせの場所についたのです。  季節は5月で新緑の香りをのせた風が心地よく吹いていました。いつもの私でしたら、近くを散策して時間を潰していたのでしょう。  私の散策を阻んだのは突然の通り雨でした。せっかく、精いっぱいのオシャレをしてきた服が濡れる――17歳の私には耐えられないことです。  自意識過剰かもしれませんが、目立たない部分が汚れたとはいえ、汚れているという点でひどい羞恥に襲われるのです。  白いふわふわとしたスカートが広がるワンピースに、ピンクのカーディガンは汚れがとても目立ちます。雨粒一つ肩に落ちただけで、私は強い悲しみを覚えました。  ですが、悲しむだけでは雨はやんでくれません。私は近くのカフェに避難して、待ち合わせ場所が見える窓側の席で、青々と晴れていく空を眺めていました。 『えっ』  私は驚きました。時計を見ると、待ち合わせの場所にAが到着していたのです。  時刻は待ち合わせの「10分前」でした。  そう。Aはいつも私よりはやく持ち合わせ場所に到着していたのです。  気づいたとしても、Aの評価はさがりません。  待ち合わせの5分前につく私を、さらに5分前にAが物陰に隠れて私を待ち、待ち合わせ時刻の5分後――Aにとっての10分間、Aはずっと私を眺めているのです。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
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