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【三】
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Aが私をずっと見ている。
10分間。恋人を待ち続ける私を、Aはどのような気持ちで眺めていたのか……えぇ、今の私にもわかりません。
ですが、私は幸福だったのです。
Aに独占されている、Aは今、私だけを見ている。そう思うと、例えようのない甘い気持ちがお湯のように噴き出しました。
Aを待つ10分が、私の中で、誰にも知られることのない私たちだけの睦み合いに思えたのです。
お恥ずかしながら、Aの心臓と私の心臓が、ダイヤモンドのレベルの強い絆で繋がったような、そんな悦びを感じていました。
もうなにも恐れることはない。周囲の色も音も時間も超越した全能感。二人だけの世界の完成です。
完璧に完結された完全な世界。Aに見つめられていることを意識して待ち続けている間、私はとても幸せでした。
ですが。
「なぁなぁ、待ち合わせにすっぽかされたのぉ」
完璧だと思われた世界は、知性の低い声に壊されてしまいました。
私がAの秘密に気づいていることを気取られないように、腕時計をチラチラ見て、待っている演技をしていたのが仇になったのです。
気づけば3人組の男が私に迫っていました。着崩した服、鼻にピアス、腕にタトゥーとよろしくない層の人間だと悟り、彼らがこれからしようとすることが直観的に理解できました。
「いえ、いつもなら、あと5分で彼が来るはずですから」
私は震えていました。
あと5分。いえ、見ているのなら、すぐ助けに来て欲しかった。
「ふぅん、本当にぃ?」
「はい、彼は来ます。本当に、本当ですっ!」
面白がる男の顔に、惨めな気持ちになって涙が出そうになりました。
「じゃあ、あと5分」
近くのモニュメントの影に隠れているAを見つけました。
「あと4分」
Aが笑っていました。
怖いのに悲しいのに。
なんで?
Aは困っている私を見て、ぐしゃっと顔を歪ませるように笑っています。
「あと3分。なぁ、どこ行こうか」
Aの笑顔が固まりました。どうやら私の視線に気づいたみたいです。
「あと2分。ちかくに、サービスの良いホテルがあるんだけど」
私はAに視線で助けを求めます。アルバイト先の時のように、厄介な客から助けてくれるように。
だけど――。
「あと1分。おっ……」
男たちが私の視線に気づいてAの方に顔をむきました。
四人分の視線を受けたAの顔は、たちまち青くなり、見えない攻撃を受けたかのように、脱兎のごとく逃げていきます。
「あとぉ、何分だっけぇ?」
ぽんぽんと男の一人が私の頭を叩きます。
せせら笑う声に私はたまらなくなり、私はその場で逃げ出しました。
ここからが最悪です。
男たちは尚も私を追い回し、ワゴン車で拉致しようとしましたが、抵抗して伸ばした手が男の髪を掴んだことで形勢が逆転しました。
私は無我夢中で男の髪を掴んで、ワゴン車のドアに叩きつけました。
ぐしゃっと、柔らかいものがつぶれる手ごたえに戦慄し、怖気が走ったのを覚えています。
彼らにしたら思わぬ反撃でした。生まれた隙をついて、私は、なんとか男たちから逃れることが出来ました。
あと、5分――助けを求めた、絶望的な地獄のような最悪の5分間。
本当に、この時ばかりは、私は自分の記憶の良さを呪いました。
そして男たちに追い回された5分後を何度も思い出し、最愛のAに裏切られた悲しみで気が狂いそうでした。
Aはあれから連絡が取れなくなり、バイトをいつの間にか辞めて、下宿先から姿をくらませていました。
彼は見事に逃げ果せ……ですが、数十年の月日を経て、私の前に現われたのです。
えぇ、驚きましたか。A、いえ、井上さん。
私も驚いているんですよ。同姓同名の可能性も考えて、あなたの身辺をしっかり調査しましたからね。
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