施行日

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初めはただの風邪だと思われていた。 微弱な発熱と倦怠感。 軽い喉の痛みと咳。 それがまるで違うものだと判明するのにそう時間はかからなかった。 あるいは強毒化するのが早すぎたのかもしれない。 飛沫感染なのか、空気感染なのかそれすらも判別つかないままに飛び散ったウイルスは人の体から出て無機物に付着した後も長く生き続けることがわかった。 おばあちゃん。 大きな病を得ることもなく安らかに老衰で息を引き取った祖母。 離れて暮らしていたため会うのは夏休みと冬休みのほんの数日だけ。 父は遅くに生まれた子供で、自分は父と同じく遅くに生まれた子供。 だから小学校高学年になる頃には祖母は亡くなっていて、あるのは微かでわずかな思い出だけ。 その、思い出。 おじいさんと初めて会ったときに着ていたワンピースよ。 ずっと着てみたかったけれど着る勇気のなかったお姫様のドレス。それをからかうこともなく褒めてくれたのが初対面のおじいさんだったの。 お姫様のドレス? 聞き返すと、おばあちゃんは生まれたときからおばあちゃんだったわけじゃないのよ。そう言って微笑んだ。 おばあちゃんじゃない祖母は想像がつかなかったし、お姫様のドレスがどんなものかも知らなかった。 何しろ、防護服以外を身につけている人物を目にする機会がほとんどなかったのだ。 物心ついた頃から防護服しか着たことがなかったし、防護服以外を身につけている人物にも出会ったことがなかった小学校に上がったばかりの自分。 みんな好きな服を着ていた頃があったのよ。流行があって、ファッション雑誌があって。それからまだ50年も経っていないのにね。 ふーん? ーーその、お姫様のドレス。 きっとこれだ。 致死率は高くない。患者の死亡率は5%もない。毎年流行るインフルエンザの方がよほど致死率は高いだろう。 ただ。 感染力が酷く強く、感染し完治しても抗体がほとんどできないために何度も繰り返し罹患する。そして病自体は完治するが深刻な後遺症が確実に残る。 人はいつからか防護服を身につけるようになった。防護服人口が増えて、いつしかごく一般的な衣服は存在をほとんど消し、防護服以外で外出すると白い目で見られるようになり、防護服が義務のような空気が世間に漂うまでに時間はいらなかった。 ーーそして。 父の転勤。 高校入学。 それを機会に亡き祖母の家に住もうという話が出たのは半年ほど前だったか。 父と母にとっては故郷で、自分はほとんど知らない土地。友人と離れるのは抵抗があったが、近くに住んでいるから一緒にどこかへ出かけられるわけでもないしネットでいつでも会える。ただ進学先の変更が少しだけ煩わしかった。 卒業式を終えて1ヶ月ほどの中学生でも高校生でもない不思議な期間。 祖母宅の片付けと引っ越し。 祖母の家は古くて広く近所の住宅からはちょっと浮いた洋館のようなデザインだった。 おじいさんが建ててくれたのよ。お姫様の家。 そう言ってはにかんだ祖母の笑顔。 今ならわかる。名作文学。秘密の花園や小公女や不思議の国のアリス。祖母はそう言った物語が好きだった。祖母の書棚を片付けていてそれに気づいた。記憶の中のおぼろげな祖母も、言われてみればいつも夢見るようにふわふわとした人だったような気もする。 グルニエのような祖母の部屋。 傾斜する天井と、天窓。天蓋付きのベッドに、レース編みのかかったロッキングチェア。 ーーそして。 人々の恐怖はピークを迎えていた。 単なる風邪だったはずなのに。 治療法はあっても後遺症の残る流行病。 それに自分がいつ罹るのか。 症状自体は大したことはなくても、後遺症が。 深刻な後遺症が。 しかも、時限爆弾のように完治後時間をおいて現れる深刻な後遺症が。 それを防ぐためにはとにかく罹らないこと。症状がなくてもかかっている可能性はあって、症状がなくても他人にうつす危険性がある。 防護服を着るのがマナー。 ーーマナーは恐怖を得て義務となった。 アンティークの両開きの箪笥。 埃除けの布をどかし扉を開いた。 管理はずっと父の姉妹がしていた。祖母の思い出を壊したくないからと生前そのままに保たれていた祖母の家。箪笥の中も当然祖母の生前のまま。 ーーお姫様のドレス。 ネットで得た知識で知っている。 フリルに、レースに、リボン。ローンの薄く透ける布。 1枚だけかけられたドレス。 そして片隅に小さな箱が置かれていた。 開けると色の褪せた写真。 見たことのない男女はきっと若い頃の祖母と祖父。 微笑む祖母が着ているドレス。 色のバリエーションはある。柄があったり、多少の飾りがついている防護服も。だけど、これとはまるで違う。 ーー着たら、きっと素敵だろう。 初めて会ったのは桜の時期。お姫様のドレスを始めて着た日。桜が見える場所がいいとお願いして建ててもらったと言っていた家。坂を少しばかり登った高台に公園があって毎年桜が綺麗に咲いた。おじいさんとの思い出の桜よ。そう言って少女のように微笑んだ祖母。 もう終わりかけだけど。 それでもまだ桜は綺麗なはず。風が吹いたら花びらが散ってより一層綺麗かもしれない。夜、こっそり公園に行くことはきっと可能だろう。 風が頬を撫でる。 髪が風になびくというのはこういう感じなのか。 色々な匂いを感じる。いい匂いも胸が悪くなるような匂いも。甘いこれは花の香りだろうか。 風が薄い布をひらひらとはためかせる。 空にかかる黄色い満月を見上げまるであつらえたようだと思った。出来過ぎてる。 わずかだけれどヒールのある靴は初めて履いた。サイズが同じで良かったと思いながら、歩きにくさも素敵だと思った。 夜道にかすかに靴音が響く。 防護服。それと一体化したブーツのゴム底ではこんな音は一度も聞いたことがなかった。 ーーあぁ、素敵。 桜もとっても綺麗。 たどり着いた公園。 満開を少し過ぎた桜の花びらが風にハラハラと散らされる。 ーーお姫様のドレス。 だが。 防護服を着ることは国民の義務。 いや。 人類の義務。 防護服を着ずに外を出歩くことは病原体を振りまくのと同義。他人に後遺症を負わせようとしていることと同義。ひいては殺人と同義。殺人者はその場で処分されても仕方のないこと。 恐怖はピーク。 そんな馬鹿げたことがすり抜けてしまった。 すり抜けて、法律として制定されてしまった。 そして今宵はその施行日。 最後に一度でいいから、お姫様のドレスを着ておじいさんとの思い出の桜を見たかったわ。 あれは、祖母と最後にあった日に祖母が言っていたことではなかっただろうか。
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