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6.散り行くは儚き
(3・散り行くは儚き)
そろそろ陽が空を赤く染め始めた頃、俺達はもとの場所まで戻ってきた。
散り行く花びらを掴もうと一生懸命のイリーを、俺はおもむろに抱き上げた。
「?! ヤゼン???」
誰かを抱き上げたことなど一度も無いので比較は出来ないが、イリーは驚くほど軽かった。
横抱きに抱えたまま最初に出会った桜の樹に歩み寄ると、イリーの身体を片手で抱えなおし、その枝まで高く跳躍した。
「ふああ!!」
すとっと枝に着地し、イリーをそこに腰掛けさせる。
目を白黒させていたイリーが、目の前に広がる眺めを見て歓声を上げた。
ここは少し丘になっている。
ゆえにここからは遠くの方までが一望できるのだ。
桜の咲き誇る美しい眺め。
桜に挟まれた大きな湖は空の朱を映し出し、煌いている。
「綺麗であろう?」
そう尋ねると、イリーは大きく頷いた。
「うん!」
「ここは俺の取って置きの場所だ。誰にも教えたことなど無い」
「イリーだけ?」
頷くと、イリーは嬉しそうにふふっと微笑み、ほんのり頬を赤くした。
「ヤゼンの秘密の場所。イリーだけ!」
自分だけというのがよほど嬉しかったらしい。
「ヤゼンがイリーにだけ教えてくれたから、イリーも一つだけ秘密を教えてあげる。
本当はね、軽々しく名乗っちゃダメだって言われてるんだけどね、イリーの名前、特別に教えてあげる!」
小さな手が手招きをする。
耳を貸せと言うことらしい。
そっと耳を近づけると、イリーが両手で囲いを作ってそっと囁いてくる。
「イルティーユっていうの。イルティーユ・フィア・ルーティス・・・・」
ぱっと離れて、キョロキョロ周りを確かめてから絶対誰にも言っちゃダメだよと念を押す。
俺は素直に頷いた。
イルティーユ・・・。
この少女が俺の運命を大きく変えるなどと思いもよらぬまま、俺はその名を心に留めた。
「そろそろ帰る時間だ。家まで送ってやろう」
そう切り出すと、とたんにイリーが泣きそうな顔になる。
「やだ!イリー帰りたくないよぅ!」
「だが、約束だったであろう?」
「でも、でも、イリー、ヤゼンともっと一緒にいたい!!」
泣きながらしがみついてくるイリーに、俺は困り果てながらも説得した。
「皆心配しているぞ。帰らねば、親しい者達ともう二度と会えぬぞ」
唇を噛み締め、イリーは大きな瞳にますます涙を浮かべた。
「いい!会えなくても良い!!イリー、ヤゼンとずっと一緒にいたい!」
随分と懐かれてしまったものだ。
「だが・・・」
言いかけた俺の言葉をイリーが思わぬ台詞で遮った。
「イリー、ヤゼンのお嫁さんになる!そしたらヤゼンとずっと一緒にいられるよね?」
絶句する俺をよそに、イリーは我ながら良い考えだと満足そうに何度も頷いた。
子供というものはなんと恐ろしい・・・。
この少女は毎回、気に入った相手にこのような事を言っているのだろうか・・・。
「イリー、そのような事は軽々しく口にするものではない」
少し冷たく言うと、イリーはむっと俺を睨んだ。
「軽々しくなんて無いもん!イリーは・・・イリーは・・・・」
ぎゅっと俺の服をつかんでうつむくイリーはそのまま口を閉ざしてしまった。
涙をぽろぽろと流しながら、真っ赤になって唇を噛み締めている。
その様子は先日、俺に告白してきた同い年の少女と同じ表情だった。
「・・・・・」
まさかこのような幼い少女に告白まがいなものを受けようとは。
一年ほど前から何故だかよく告白されるようになったが、これは最年少記録かもしれない。
だが、好かれて嫌な気などしようはずも無い。
俺はイリーの前髪を払い、顔を上げさせた。
こぼれる涙を優しく拭って、その額に口付けると、イリーの小さな身体が驚いて硬直する。
「そうだな・・・もしも十年経ってもまだ俺の事を好いていてくれたならば・・・・嫁にもらってやろう」
十年経てば俺は二十二。
イリーは十八になる。
その年になってしまえば、四歳差などむしろ丁度良い。
まぁ、その頃になれば俺の事など憶えてなどいないだろうが。
俺の言葉を真に受けたらしいイリーは目を輝かせて大きく頷いた。
「ほんと?!イリーをお嫁さんにしてくれる??絶対だよ!約束だよ!!」
今まで数々イリーの嬉しそうな表情を見たが、この時が一番輝いた笑顔だった。
「絶対迎えに来て!イリーを迎えに来て!イリーずっと待ってるからね!」
イリーが例のレースのリュックを漁り、その中から何かを取り出して俺に差し出した。
それは薔薇の花の紋章のペンダントだった。
「これ、ヤゼンに預ける。すっごく高価なものなのよ。だから絶対返してね。イリーを迎えに来て、返してね!」
幼いくせに、なかなかの策士ではないか。
俺は苦笑しながらそのペンダントを受け取った。
空いたその手に、代わりに自分のつけていた翡翠の勾玉を乗せた。
「交換だ」
何故そのようなことをしたのだろうか・・・。
イリーは驚きながらも嬉しそうにそれを握り締めて微笑んだ。
「ヤゼンとイリーの約束」
イリーを抱いて木から飛び降り、手を引くと、イリーは素直に俺に従った。
どうにかうまく帰らせることが出来そうだ。
森の中を小一時間ほど歩き、辿り着いた場所で森に張り巡らされた結界の合間を縫い、外界を目指す。
俺も外に出たことは無いが、出入りの仕方はとうの昔に教わっている。
とはいえ、少しでも道を間違えると、引っかかれば即死するほど恐ろしい罠が仕掛けられているので、気を緩めることは許されなかった。
深い霧で全く見えなかった視界が、少しずつ薄れていく。
出口は近いようだ。
少しだけほっと息をついた時、イリーが何かを見つけた。
「あ」
一瞬だった。
見つけた何かを手にとろうと、イリーが手を伸ばした。
踏み出した足はたったの一歩。
小さな足がくっと踏んだ細い紐。
よろめいた細い身体。
危ないと思う時間すらなかった。
反射的に飛び出した俺の身体。
大して何も感じはしなかった。
ズドンという重い音。
衝撃だけが俺を襲った。
「いたーい!」
強かに地面に身体を打ちつけてしまったらしいイリーが俺の下でそう言った。
「ヤゼン何するの!イリーあちこち擦りむいちゃったじゃ・・・・」
途切れたイリーの声。
元気なその声に、ほっとした。
どうやら大きな怪我はしてないようだ。
「きゃああああああああああ!!!」
突然上がった甲高い悲鳴。
きっと俺の怪我を見て驚いたのだろう。
「ヤゼン!ヤゼン!しっかりして!!」
この程度、全く問題ないと・・・答えようとした口が、動かない。
俺の下から抜け出したイリーの薄ピンクのドレスが、赤く染まり濡れていた。
気が付けば地面に血溜まりが広がっている。
それを知った時、意外にも心は穏やかだった。
痛みを感じないためか、意識が薄れていくためか。
しきりに俺を揺さぶっていたイリーが、突然立ち上がり、森の奥へと走り出した。
危ない・・・。
下手に動いてはいけない。
このような罠が、まだそこらじゅうに張り巡らされているのだから。
引きとめようと無理やり開いた口から出たのは、制止の言葉ではなくあまりにも鮮やかすぎる鮮血だった。
このまま死ぬのだろうか・・・?
死を恐ろしいとは感じなかったが・・・
薄れ行く意識の中で
ただ、
走り去っていった幼い少女のことが、
気がかりでならなかった。
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