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9.選びし道は遙か
(4・選びし道は遙か)
おそらく学士になるよりも、医師になるよりも険しい道だろう。
それでも俺は忍の道を選んだ。
忍に戻れぬわけではない。
朔夜は確かにそう言った。
ならば、もとに戻れる可能性も零というわけではないはずだ。
無理をしてはならない。
裏を返せば、無理をしなければ構わない。
庭で稽古をすると要らぬ噂が立つ。
だから、俺はあの桜の傍でたった一人、特訓を始めた。
だが、ただ苦無を投げようと手を上げただけで全身が震えた。
背中を動かすことが怖かった。
うずくまったまま歯がガチガチとうるさく鳴るのを止められないほど俺はあの痛みに怯えていた。
これが朔夜の言っていたトラウマ・・・
頭を強く振ってこの恐怖を追いやろうとするが、どうにも上手くいかない。
数週間もの間、ただ震えるだけで、あれほど簡単に投げていた苦無を一度も投げることが出来なかった。
身体が震えるのは稽古中だけではなかった。
地面に落としたものと拾おうとしただけで震えが止まらなくなった。
一番困ったのは、夜、眠ることが出来なくなったことだ。
眠るといつも背中に激痛が走る悪夢を見る。
それを見るのが恐ろしくて、眠りにつくことが出来ないのだ。
眠れたとしても、必ず悪夢を見るので、その次の日は眠れなかった日よりも疲れがひどかった。
そんな地獄のような毎日が半年間続いた。
思うように動かない左腕を苛立ちのままに何度も切りつけていると、気が付けば左手の甲にはおびただしいまでの傷跡が残っていた。
その苦しみに耐えられなくなり、縋った相手はその時たまたま神薙家に訪れていた呪い師だった。
呪い師の年配の女はひどく俺に同情し、力になりたいと申し出た。
材料代がかかるので、その分だけの代金で良いからどうだと問いかけてくるので、ちらりと父上の方を見ると、父上は寛大にも頷いてくれた。
白い粉と透明な液体、それに何かの葉をすりつぶしたものを混ぜて調合して俺に手渡し、最後にこれを飲むようにと指示した。
背中を出せといわれたので、上半身の服を脱ぐと、呪い師は俺の背中に墨のついた筆で何かを書き始めた。
少し痛いですよといわれた直後、背中の真ん中にちくりとした微かな痛みを感じる。
一通り終えたらしい呪い師が帰りがけに代金を受け取り、こう言った。
「二週間ほど続けなければ効果は出ないので、明日もまた来ます」
その日の俺はその呪いが効いたのか、久しぶりに眠ることが出来た。
それを告げると、少しやつれた父も微かに笑みを見せた。
次の日も約束通りやってきた呪い師に昨日と同じ呪いを施してもらった。
それを一週間ほど続けてもらうと、今度は呪い師が別の呪いも試してみましょうと切り出した。
いつもの呪いを終えた後また何やら薬を取り出し、俺の手に乗せる。
この薬を、夜、月を見ながら額に塗るようにといい去っていった。
三日後、それらに加えて更に別の呪いを紹介してくる。
材料代というのがいちいち高そうだったので、また父をちらりと見ると、父は前と変わらぬ優しい笑みで頷いてくれた。
呪いを施してもらっている間は不思議とよく眠れた。
約束の二週間を終え、いつものように代金を受け取ったらしい呪い師が自分の家へと帰って行った。
見事な呪いをしてくれた呪い師に何かお礼がしたくて、俺は小遣いをはたいて綺麗な細工の櫛を買い、呪い師の家を探した。
だが、呪い師の家があるはずの場所には、別の者が住んでいた。
「呪い師が、確かにこの家だと言っていたのだが・・・」
そう言うとその家の者が何かを思い出したらしく、俺に言った。
「噂で聞いたことがありますよ。呪いと偽って金をぼったくるんですよ。
材料費だけでいいからと高額の金を出させるんですがね、本当は平民の一食分の食費にも満たない材料費なんですよ。
矢禅様、貴方、騙されたんじゃないですかぁ?」
あきれた様に男は俺を鼻で笑った。
馬鹿な・・・。
それでは今まで俺はそんなでたらめな呪いに感謝していたというのか。
一度だけ父が呪い師に金を渡すところを見たが、その額は決して安いものではなかった。
男に礼を言って俺は家へと走った。
屋敷に戻り真っ先に父に先ほど男から聞いたことを告げたが、父は何も驚かなかった。
「知っていた」
ただ、それだけを言った。
「ならば、何故金を出してくださったのですか?!」
父に叫ぶように問いかけると、父は穏やかな声音で述べた。
「でたらめであろうがなかろうが、そのような事はどちらでも構わぬ。
要は御主に効果があるかどうかが大切なのだ。
本来はでたらめであったとしても、御主はよく眠れるようになったと言った。
御主の顔色が少しよくなった。
私はその代金を払ったのだ。妥当な金額だと思ったから払った。それだけの事だ」
俺は父の部屋を飛び出した。
溢れる涙を止める事が出来なかった。
いつも俺を褒めてくれていた父だったが、これほど親の愛を感じたのは初めてだった。
父がやつれたのはきっと俺のせいだ。
これ以上父に迷惑をかけたくないと強く思った。
どうすれば父に迷惑をかけずにすむ?
父を喜ばせることが出来る?
それはきっと、俺が立派な忍に成長することに他ならないに違いない。
それからますます稽古をする時間が長くなった。
稽古と言っても苦無を手に、止まらぬ震えと戦う時間が増えただけだ。
だが、前ほどその時間を苦しいと感じなかった。
いつかもう一度兄上を追い抜き、父を喜ばせてみせる。
俺の努力の源は父への思いに変わっていた。
それから半年がすぎた頃には、俺は苦無を何の苦もなく投げられるまでに回復していた。
更に一年がすぎれば、重い刀を扱うことも出来るようになった。
ただ、刀の方は元通りとまではいかない。
もともと左利きだった俺だが、左肩まで走る傷のため、まだ怯えが残っているのだ。
だから、俺は刀を右手に持ちかえることにした。
変に恐れと戦い続けるよりも、右手での技を磨く方が早いのではないかと考えたからだ。
左利きとはいえ、ほとんど両利きに近い俺であるから、その予想は当たっていたのではないかと思う。
昔に比べ、素早さには劣るが、治療のためすっかり衰えていた筋力も大分元に戻す事ができた。
まだ全く手をつけるのが恐ろしいのは跳躍。
跳躍での空中半捻りで背中が痛んだのだから、一番恐ろしいに決まっている。
またあの痛みが襲ってきたらと思うと、全身が震えだすので、それだけはまだしばらく克服出来そうには無い。
少しずつではあるが、俺は順調に回復していた。
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