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彼のお話
「忘れ物ない?イヤホンとか眼鏡とか」
「ん。大丈夫。相変わらず心配性だよね、奏人は」
「だって夏菜忘れ物多いじゃん」
8月の夕方、遠くからひぐらしが鳴く小さなバス停。
東京で唯一電車が通らないこの村では、バスが僕らの青春を繋ぐ交通手段だ。
淡い水色のワンピースを纏った彼女は、まるで夏の妖精のようだった。
出会った頃から相変わらず、ずっとかわいいくて華奢で、
いや、もう彼女じゃないんだよな…
夏菜から突然別れを告げられたのが1週間前。
理由は、はっきり教えてくれなかったし、はっきり聞かなかった。
ただ、遠くに引っ越すということを知った。
何事もしっかり考えてから行動する夏菜のことだから、きっとたくさん考えて迷って、それで決めたことなんだろう。
人に頼るのが苦手でなんでも自分で考え込んでしまうのが、夏菜のすごいところで、悪いところだ。
別れを決める前にちょっとは僕を頼ってほしかった。
相談してほしかった。
遠距離なんて僕は全然気にしない。
過ぎたことをそう願ってしまうのは、僕がまだまだ未熟な男だからだろうか。
頼りがいのある男だったら、相談してくれたのだろうか。
「バス、あと5分だね」
夏菜が時計を見ながら呟く。
17:35分発のバス それが僕たちの最期になる
もう会えないかもしれないと言った夏菜を、僕は引き止めたくて仕方がなかった。
こんなに素敵な女の子を忘れるはずがない、忘れられるはずがない。
なんで遠くへ行くの?どこに行くの?
でも今更そんなこと聞いたって…
あと5分、夏菜にどんな言葉をかければいいか、何を話せばいいか、全く思いつかなかった。
たくさん思い出があるのに、今はそれもはっきり言葉にできなくて、
ただ、時間が止まればいいのにと願っている。
この時がずっと続いてしまえばいい。
世界を置き去りにして、僕らだけの時間が進めばいい。
左目から涙が零れた。
だめだ、ここで泣いたら夏菜を苦しめてしまう。優しい女の子だから、きっと迷わせてしまう。
幸いにも右側に立つ夏菜からは、涙は見えなかっただろう。
夏菜がバスに乗るのを見送るまでは、絶対に泣いちゃだめだ。
時計を見た。17:33、もう時間が無い。
本当にこのまま会えなくなってしまうのか?
押し寄せる現実に唇は震えて、何も喋れない。
怖くなって夏菜の左手を掴んだ。
振りほどかれなかった。
優しく僕の右手が握り返された。
2人とも顔を合わせることはできない。
今この顔を見られたらきっと先へ進めなくなる。
手を繋ぐ2人の影がただ伸びている。
何も話せないまま、遠くから終わりを告げる音が迫ってきた。
「じゃあそろそろ行くね。見送り、ありがとう」
少し寂しそうな声がして、右手から温もりが離れた。
俯いていた顔を上げると、いつもと同じようにえくぼがかわいくて少し眉の下がった笑顔の夏菜がいた。
「ほんとにありがとう。じゃあ、身体に気をつけてね。あと、猫にもよろしくね」
バスの扉が開く。
ああ、これで本当に最期なんだ。
「そっちこそ、引っ越し大変だろうけど頑張って。僕はずっとここに居るから、帰ってくる時には連絡してね」
いつもと同じ調子で、最期のおわかれをする。
夏菜が少し困ったように笑った。
「うん、そうするね。
じゃあ元気で」
大きなスーツケースを持って夏菜がバスの段差へ足をかけた。
「夏菜!ありがとう!すごく、幸せだった!」
自分でもびっくりするぐらいの大きな声が出た。
これだけは伝えておきたい。君という女の子に、僕がどれだけ感謝をしているか、知ってほしかった。
夏菜がふりかえる。
両目からたくさんの涙を零して
「ありがとう」
と笑った。
バスの扉が閉まった。
と同時に「ごめんね」と言ったような気がした。
エンジンがかかる。
だめだ、行かないで、まだ話したいことあるんだ
あの日見た花火のことを、一緒に行った都会の悪口を、泣いて明かした夜のことを、2人で可愛がっていた野良猫のことを、
夏菜のことを、
もっともっと話したい
ゆっくりとバスが動き出した。
「いかないで……まってよ… ねえ…
いかないでよ…まだ僕たちこれからじゃんか…」
足が勝手にバスを追いかける。
「夏菜…いかないで… いかないで!」
走った。追いつけるはずもないのに、ただバスを追いかけた。
どんどん距離が離れていく。
2人の息が、心が、離れていく。
近づきたい、重なりたい、もっと、
「なつ、な…」
息が切れて膝に手をついた。
もうバスは見えない。
今更2人で作ってきた思い出が頭に流れ込んできた。
今あの5分前に戻れたら、きっと楽しい話が出来るのに、思い出話が出来るのに、もう戻れない。
夏菜も戻ってこない。
「ばかだな僕は…何やってんだよ…」
道路に仰向けになり泣いた。
もう僕に出来ることなんて何もなくなってしまった。
たくさん支えてもらった恩を、僕はちゃんと返せただろうか。
「どうか、夏菜のこれからが幸せでありますように」
夏菜が大好きだった、夕方と夜の狭間の空に1人願った。
次夏菜に会ったら、たくさん話をしよう。
だからどうか、元気でいてね
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