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彼女のお話
「あのね、大事な話があるの」
「どうしたの?」
「私、引っ越すことになったんだ、遠くに。
あとね…
私たち別れよう」
突然こんなことを言い出したにも関わらず、奏人は怒らなかった。
むしろ心配してくれたんだと思う。
理由もはっきりと聞かれなかった。
私を信用しすぎているところが奏人の悪いところだ。
何かあっても怒らずにゆっくり話を聞いてくれる。本当に素敵な人だと思う。
でもだからこそ別れようと思った。
3日前、急に胸が苦しくなって血を吐いた。
村の小さな病院に駆け込むと、ここでは手に負えないから都心に行きなさいと言われた。
どうやら私はそう長くないらしい。
とりあえず1週間、ここの病院で治療していろいろ準備をしたあと、すぐに大きな病院での手術が決まった。
そこからの手続きは淡々と行われてあまり覚えていない。
難しい手術で後遺症が残るかもしれない、とお医者さんから言われ、お母さんが泣いていた。
お父さんはただ顔を俯けていた。
でも当事者である私は不思議と落ち着いていて、ただ奏人のことが頭に浮かんでいた。
このまま付き合っていたら絶対に奏人に迷惑をかけてしまう。
優しい彼はきっといつまでも私の傍に居てくれる。だからそれはやめてほしかった。
大好きだから、愛してるから、別れなきゃいけない。奏人の幸せのためにも。
別れようと言った時、怒られてそのまま喧嘩別れでもいいと思った。
私のことを忘れたらきっと次、いい女の子と出会えるから。
記憶の片隅に「夏菜という女の子との思い出が少しある」のなら、それでよかった。
「ほんと、優しすぎるんだから」
「ん?何か言った?」
「べつにー」
村を発つバスの時間を伝えると、ちょうど見送りに来てくれた。
「忘れ物ない?イヤホンとか眼鏡とか」
「ん。大丈夫。相変わらず心配性だよね、奏人は」
「だって夏菜忘れ物多いじゃん」
いつもみたいにどうでもいい話をして笑った。
ちょっとくせ毛でふわふわの髪の毛がかわいくて、背が高くて、手足がすらっとしていて、私にはもったいない男の子。
今奏人の目にはちゃんと綺麗な私が映っているのかな。
お気に入りの水色のワンピースに点滴の跡を隠し、メイクで血色を良くしたこんなボロボロの身体を知られたくない。
どうか、最期まで気づかれませんように。
「バス、あと5分だね」
奏人は何も言わなかった。
ただ道路の向こうを見つめていた。
今どんなことを考えているんだろう。
やっぱり怒ってるのかな、それとも寂しいって思ってるのかな。
何て声をかければいいかわからなかった。
ただ2人だけの時間が流れている。
目の端で、奏人が左目を拭うのが見えた。
泣かないでよ。辛くなるじゃん。
残酷な提案をしたのは私だ、病気になったのも私の身体だ、でも、私が悪いの?
私今まで悪いことしてない
奏人ともずっと仲良くて
じゃあなんでこんな別れ方しなきゃいけないの?
どうしようもない怒りのようなぐるぐるとした感情が溢れてきた。
もっと一緒にいたい
もっと話したい
もっといろんなところに行きたい
もっと一緒に生きたい
だめ、泣いちゃだめ、私が泣いたら奏人を困らせる
このまま世界が止まってしまえばいい
ずっと2人だけの時間が続いてしまえばいい
怖い、もう会えないかもしれない
私これからどうなってしまうの?
怖い、怖い、怖い、怖い
次の瞬間、急に左手に温かさを感じた。
奏人の大きくて、女の子みたい細い指。
少し力が入った右手を、そっと握り返した。
やっぱり奏人の手は安心する。
大好きな手。
もう何も話さなくてもいいからずっとこうしていたい。
涙を必死にこらえた。
奏人も何も話さず、ただ2人で手を繋いでいた。
遠くからバスの音が聞こえる。
5分ってあっという間だな。授業中はあんなに長く感じたのに。
よし と決心し、手を離した。
「じゃあそろそろ行くね。見送り、ありがとう」
いつものように笑ってみせた。
「ほんとにありがとう。じゃあ、身体に気をつけてね。あと猫にもよろしくね。」
後ろでバスのドアが開く音がして、冷気が頬を撫でた。
「そっちこそ、引っ越し大変だろうけど頑張って。僕はずっとここに居るから、帰ってくる時には連絡してね」
少し目を細めて奏多が笑う。いつもの奏人だ。
「うん、そうするね。
じゃあ元気で」
これ以上話していたら行けなくなってしまう。
大きなスーツケースを抱えて背を向けた。
もう振り返らない
「夏菜!ありがとう!すごく、幸せだった!」
後ろから最期の声が聴こえた。
ほんと、敵わないな もう涙止められないよ
「ありがとう
ごめんね」
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、思いっきり笑ってみせた。
誰にも泣いているところを見られたくなくて1番後ろの席に座った。
終わりを乗せて、バスが出発する。
「夏菜…いかないで…いかないで!」
びっくりして振り返ってしまいそうになった。
誰の閉め忘れか、座った席の窓が少しだけ空いていた。
「かな、と…いきたく ないよ…こわいよ…
やだ…もっと 一緒に いたい 」
小さな子が駄々をこねるように、ずっとずっと涙が溢れてくる。
でも絶対後ろは見ない。
バスは速度を上げて2人の地面をずらしていく。
心が、思いが、離れていく。
それでもまだ奏人が追いかけてきているのがわかった。
「もういいよ… もういいんだよ…だからもう走らなくていいから …
ごめんね ごめんね… ずっと大好き 」
2つ目の信号にさしかかる頃、もう声は聞こえなくなっていた。
もう奏人に何もしてあげられなくなってしまった。
たくさんもらった温かいものを私はちゃんと返せただろうか。
「どうか、奏人のこれからが幸せで溢れていますように」
暗いバスの中で1人願った。
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