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そこは、慎ましく静かな神社だった。
小さな社が奥に備えられ、左手には、小さな手水舎が見える。ここまで登って来た、立派な組み石の百石階段の後には、少々肩透かしを食らう光景だった。
しかし、成すべき事を胸に秘める子供にとってはそうではない。土地神か、祭られた人ならざる者か……。何であっても、自分の願いを叶え届けてくれる、神様がいる場所。
子供は参道の真ん中を避けて、左側を歩いた。
まず初めに、小さな手水舎へと向かう。手水舎と言っても、瓶に玉砂利を敷いただけの簡素な造りだ、そのうえ、杓を探すが見当たらない。
子供は杓を探すことをすぐに諦めると、こんこんと瓶から流れる水を、片手ですくい、作法に習い身と口を清めた。
清涼な山水が小さな唇を湿らせる。そうすると、その冷たさで不思議と元気が戻ったような気がした。そのままぺたぺたと数歩行き、なんだか一層寂しい小さな社に対面した。
「……」
子供は懐から巾着を取りだすと、きらきらと光るおはじきを一枚取り出した。そして、それを慎ましく小さい賽銭箱へと投げ入れた。さらに、ぺこり、ぺこりとお辞儀をし、両手をパッと広げて、二回柏手を打つ。そして――
「……っ」
息をも詰まる真摯さで、熱心に願い事をする。
最後に深々と頭を下げる子供。
「……」
子供は一式を終えると、くるりと社に背を向け歩き出した。
子供が去った境内に、若い男の声が聞えた。
「うーさん、聞えたかい?」
「あぁ、聞こえた」
社を守る石像。二対一体の獅子と狛犬は、百石階段をぺたぺたと下りていく、小さな背を見守った。
子供のよたつく足元が危なっかしく、獅子は石座の上で立ち上がっては屈み、屈んでは立ち上がりを繰り返して、落ち着かない。
「うーさん、うーさん。階段って下りる時が一等危ないって知っているか? 気をつけろ童、そこからじゃ六十段。そんなに落ちたらあの世まで止まらん」
「大人は何をしている、手を引いてやってはくれないのか……否、はなっから一人で来たか」
「あぁ! すべるなよ! そこの石は妙になめっているんじゃっ」
「うん、かと言って隣の石を踏むのは止めてくれ。噛ませがズレて、危ないぞ」
「あーー! っぶない……、よぎる蝶に気を取られるなっ」
「おっと、下を向いて汗を拭うでないよ! 子供は頭が重いだろう、重心が傾ぐ」
「あ゛! 躓いた、ほら、もうっやめいっ!」
「うーん、一旦小休止をいれてはどうだ、な、うん。聞こえぬな」
見守っていた獅子と狛犬は、子供に届かぬ騒ぎを起こしていたが、子供が残り二十段と下りたところで、ようやく人心地つけた。
獅子がふぅっとため息を付き、前足で、流れぬ汗を拭う真似をしてみせた。
「はらはらしちゃうね。何だいありゃ、最近の流行かい? まったくまったく、詣でてくれるのは嬉しいが、こっちの気が持たん。有難迷惑ってこの事だ」
「……」
「ありゃ、うーさん?」
獅子が返事をしない相方を見やると、狛犬は、先程子供が歩いた地面をじっと見ていた。
そして、ぽつりと狛犬が言った。
「我慢強い子だ」
「……」
獅子がくしゃりと顔をしかめ、同じように参道を見下ろし、ため息をついた。
「裸足で百段上がるなんて、流行わけないな。なぁ? うーさん」
獅子は器用に肩を落とし、土に黒く染みはじめた小さな血の跡を見つめた。
血は、子供が行った参道あとを示していた。
裸足で行った参拝で、熱く焼けた石階段に、柔らかい皮膚を破かれた後だった。
狛犬はその血から目を離さず、獅子へと聞いた。
「あの童、爪先削れて血も流して……、何を成そうとしているか分かるか? あーさん」
「……うーさん。あの童が、何やってるのかわかってんだろ」
「むんずと口を閉じて、二礼二拍手一礼。何を考えているのか、知っているか、あーさん」
「うーさん。あの童が何考えてんのか、聞えただろう」
「……」
「……」
獅子と狛犬は、眺めていた参道から目を上げると、互いを見た。
「参ったな、阿形」
そう呟いた狛犬の目から見えたのは、夕日に染まる渦潮の巻き毛。そして、その豊かな赤毛に埋もれる、しなやかな体と、鞠に似た虹彩を持つ、まん丸い目の守り獅子。
名を阿形。
「参られたな、吽形」
そう返した獅子の目から見えたのは、波が無限に寄せるさまを見せる、青海波のたてがみ。その青い毛並みから覗く、鋭い眼光と吊った眉。そして、引き締まった体を浮き彫りにするような筋肉を持つ、祓いの狛犬。
名を吽形。
石像の器を持つ二対一体の神獣は、この百石階段神社を守る、神の仕いだった。
いまは、人の目にさらす石像の体はふわりと消え、それぞれが持って生まれた、赤色と青色の色合いを晒していた。
「吽形。爪先削れた、紅い御足のあの子がやっているのは……お百度参り。紅葉の足跡残してる」
「阿形。銭ほど重いおはじき投げやる、あの子がやっているのは、お百度参り。切れた息を縫い合わせ、百に積まれた石段踏みしめる」
風が吹き、ぎしぎしと社が鳴く。二対の神獣はギョロリと社に目を向けた。
「……」
「……」
そこへと突然、二対が作り出す、重い緊張を破る大声が届いた。
「よろしくっおねがいぃぃー……もう・しあげますっ!」
二対はぎょっとして石階段を振り返った。
ちょうど下では、再び子供が走り出し、此方へと向かっていた。
「なっ」
「……ぷっ、なんじゃ、もぅ、くくっふふ」
眉間にしわを刻ませた吽形と、くしゃりと表情を崩し、巻き毛を震わせ笑う阿形。
吽形は、石座から身を落とさんばかりに乗り出ると、慌てて吠えた。
「わ、童、それはいらん。お百度参りにそんな合点な慣習は無いぞ」
「体力馬鹿かあの童。大人でさえ一日ごとぞ? いじらしさが吹っ飛んだわ、く、ふふふ」
笑う獅子と慌てる狛犬は、こちらへと駆けて来る子供の為に、再び石像へと戻った。
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