炊事場

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炊事場

○●  炊事場のひんやりとした土間に、女の叱咤が響いた。続いて子供の小さな悲鳴。 「このマヌケ! そんなボロ切れみたいな足で上がるんじゃないっ」 「きゃ、堪忍です。おまきさん」  子供は、おまきに乱暴に肩を掴まれた。  その拍子に、ぐらりよろけた体を、傷だらけの足で支えられず、そのまま土間へと転がる。     ここは色街、極楽掘(ごくらくぼ)りの内に構える大店(おおだな)。『はと(にしき)』。  極楽掘りは、町人達が住まう賑わい所、商町(あきないまち)からは離れた場所にあり、子供が駆けた、百の石階段を持つ『百石階段神社』からは、少しだけ離れた場所にあった。  色街は、一面が田んぼの土地に、誰かが広げた風呂敷の様にぽんと広がっていた。  そこは、周りの瑞々しい水田とは対照的に、今にも枯れそうなお堀にぐるりと囲まれ、夜になると、海の様に深く沈む水田の中に、煌々と浮かび上がる。  そんな色街の大店、『はと錦』で子供は下働きをしていた。  土間へと転がったままの子供へと、おまきの追の叱咤が飛ぶ。 「まったく何なんだい、その足は! 傷だらけの泥だらけで汚いったらありゃしない。川ドジョウだって、もちっときれいだ。お前、その足で絶対に座敷に上がるんじゃないよ。畳に血でも付いたら大事だ」 「あい」 「いいかい、グズ。お前は土間外で仕事だ。台ふきんとそこの野菜を洗ってきな、干してある座布団も全部入れて来るんだよ、わかったね」 「あい、おまきさん」 「夕刻が迫ってる、とろとろするんじゃないよ!」 「あい、すぐに……わっ」  おまきに怒鳴られて慌てたのか、土間から立ち上がった子供は、再び体制を崩し転がってしまった。さらに悪いことに、崩れ込んだ先にあった野菜かご(こんな時に限って、ずっしりと重い、ぱつぱつに張ったトマト)を巻き込み、野菜を土間中に散らばせてしまう。 「わっ……わ」 「ぎゃ! この大馬鹿っ、いい加減におし!」  おまきは大股で子供に近づくと、大きく手を挙げた。  耳元でぶんっと空気を切る音がし、すかさず子供はぎゅっと目を閉じ、衝撃に備えた。 「やめろ」  冷たい声がした。 「……?」  子供は張られずに済んだ頬を引くつかせ、そっと目を開けた。  言葉一つでおまきを止めたのは、子供よりかは二つ三つ年上の少女だった。  少女は続きの間に立ち、土間で騒ぐ二人を睨みつけている。その目はなるほど、人を止めたわけだ。何とも言えぬ恐ろしさがあった。 「笠鼓(かさづつみ)、あんたにゃ関係ないだろ。炊事場からこっちは私たち下働きの領分だ。偉そうなことを……」  「黙れぶす。やめろ」  ぶすと言われて、おまきの顔が怒りで赤黒くなる。そう言い放った少女、笠鼓(かさづつみ)が、見目愛らしい事も相まって、侮辱の言葉が同じ女のおまきをじわじわと責める。  笠鼓の揃えた前髪の下、形よく大きな目が、真っ直ぐにおまきを見つめている。 「おまき、手を下せ。ダンナ様の持ち物を、ダンナ様以外が殴る事はダンナ様を怒らせる」  「っくそ、薄墨女(うすずみおんな)め」  店の主であるダンナ様の呼名を聞くと、おまきは手を下し悪態をついて土間から出て行った。  夕刻前の(せわ)しない時分、おまきとてこれ以上の面倒事は嫌なのだ。
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