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思わず書類へ署名をする手を止めた時だ。
「お嬢様! ジーク様がいらっしゃいましたよ」
「本当!?」
そのまま、私は部屋の外へ出た。
「ジーク!」
「やあ。こ、こんにちはジェーン。何か手伝えないかと思ってね」
「もちろん山積みよ!」
「そりゃ、腕が鳴るな」
くすくすと笑うのは、柔らかい茶色い目と茶色い髪をした、ジークだ。少し人見知りな彼は、私のお見合い相手の1人だったラファレル伯爵の5人目のご子息。ぐいぐい来ない、ちょっと控えめな様子に、なんだかとても癒されてしまって……私はすっかり彼と共に過ごす時間が増えていた。
彼が、5人目のご子息というのも大きい。入り婿になってもらっても、何も構わないからだ。
「ジェーン。この作業が終わったら、少し時間が取れるだろう?」
「ええ、その通りよ。どうしたの?」
「ストレーリ子爵領の西にある、ヴァッチェスの花畑が満開なんだ。少しだけ、見に行かないかい? 僕も一緒に頑張るから」
「素敵! じゃあ、一緒に行くわ」
私には、何も起きていない。お兄様からも、何もない。
夢だったんじゃないか、そう思えてくることもある。お兄様は神子様ではなくて、本当はどこかへ入り婿へ行ってしまったんじゃないかって……。
ジークが来てくれたことで私はあっという間に仕事に集中し、ひとまず、半日は自由な時間を手に入れた。約束通り、私とジークは同じ馬車でヴァッチェスの花畑を目指す。優しく抱き寄せられて、私は夢見心地になる。
夕暮れ時、あと少しで今日の宿につく。まだ日が明るいうちでよかったと、ほっとしていた。
と、その時。ガタン、と音を立てて、馬車が止まる。身体が大きく揺れたのを、ジークが抱き留めてくれた。
「何事!?」
「お嬢様、突然申し訳ございません!」
ここまで馬を飛ばしてきたのだろうか。馬車のドアをはね開け、執事のダニーが、叫ぶ。
「御屋敷の、御屋敷の上流で大雨が!! 大量の水が、一直線に街へ!!」
「なんですって!?」
私は思わず、立ち上がる。ストレーリ子爵家の領地には、川が流れている。川幅も広く、その水源であるエーナ湖は風光明媚な場所として有名だ。
ただ……万が一、エーナ湖が氾濫したら町が沈むとも言われていた。
「私はたまたま、他の使用人の穴を埋めるために、旦那様のご命令で屋敷の外に……! 屋敷にはまだ、旦那様と奥様、それから使用人たちが……!」
頭の中から、ぴきぴきっ、と音がした。血の気が引くとこんな音がするのだ、そう思いながら、ダニーへ言う。
「今すぐ戻るのは危険すぎるわ……夜盗がでるかもしれない」
「しかし!」
「朝を待ちましょう!! その間に、支援物資を急いで集めて頂戴。夜でも道を行けるだけの技量がある者を集めて。危険だからとにかく費用は弾んで、私からの指示を飛ばすから!」
冷や汗が止まらない。どうか助けて、海神ラーヴェ様。
思わず祈りそうになって、私はぐっとこらえた。
(祈る……? いいえ、祈る顔なんて持ち合わせていない……!)
お兄様への罪悪感と、ストレーリ子爵家の跡目として育った矜持が、私の中で祈るという選択肢を忘れさせた。
今、ここで、私が潰れるわけにはいかない。腹の奥に力を入れて、立ち上がる。
「お父様とお母様のことよ、何とか生き延びるはず。荒れた川辺のことは町の人も良く知っている。すぐに救助できるように、できる限り体制を整えるの!」
「……お嬢様っ」
ダニーは、涙ぐんでいる。ジークが私の手を、強く握る。
「やろう、ジェーン」
「ええ!」
私は力強く、頷き返した。
……それからのことは、まさしく。氾濫した川のように、怒涛そのものだった。
翌朝になり町へ向かうと、そこには何故か、王都にいるはずの国直属の騎士団がいて、私たちが引き連れた救援隊が活動しやすいように助けてくれた。それだけじゃない、領民には被害が出ていなかった。船も無事で、いくつかの家が川が起こした波に飲まれていった程度……。
そう、私やダニー、ジークが予想していたのよりも、大幅に少ない被害だった。
ほどなく、国の騎士団が来ていた理由も、意味も分かった。
「神子様が騎士団を連れていらしたのです! そしてあっという間に水を操られてっ……! でも、あと一歩のところで、ストレーリの、お屋敷は……」
現場を見ていたという、メイドのメアリーは涙ながらにそう語った。
なんでも両親は、最後の領民が逃げるまではと、屋敷に留まっていたという。そこに運悪く水が押し寄せて、屋敷ごと海へ流されたそうだ。
何もない屋敷跡を前に、誰もが、仕方がなかったと語った。それほどまでに、国の騎士団と神子……お兄様の到着は、ギリギリのところだったそうだ。
神子様は、流された屋敷を見て、悲鳴を上げたという。
何とか屋敷の中から人を救い出したが……その体はもう、人の形を保っていなかった。それでも最後の一人まで救い出してくれたから、亡骸は全て墓地へ葬ることができた。
もし……兄。いいえ。
神子様がいらっしゃらなかったら、何もかも私は失っていただろう。
「……私が全てを受け継ぎます、お父様、お母様」
墓前に花を供えながら、私は誓う。
ジークとは正式に結婚が決まり、日取りも決定されている。いつか、私も、両親のように海に流される日が来るのかもしれない。あまりにもうまくいきすぎている。生き残った屋敷の誰も口には出さなかったけど、そういうことだろう。
両親は、海神ラーヴェ様の怒りを受けたのだ。
でも今の私には、天罰を恐れる気持ちはなかった。
私は生きていくと、そう決めた。この国で、この港で。
神子様が知らなかった景色と、ストレーリ子爵家の、名と共に。
……私たちが『存在しない者』としたように、お兄様にとって私たちは『存在していない』のかもしれない。だから、こうして、助けに来てくれた。同じく守るべき民だから。
でもお兄様は、私に幸せにと願ってくださった。
パンのことを、覚えていてくださった。
ならば。生きること。潰れないこと。怖がらないこと。
それがせめて、私にできる償いと、そう信じるしかない。
ストレーリの港を行く潮風を感じながら、私は両親の墓前からそっと立ち去るのだった。
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