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砂に消えた改心
砂漠地方へ向け、1人の老人が船を乗り継ぐ。
名をダニー。かつて、ストレーリ子爵家の執事を務めていた老人だった。
ジェーンはストレーリ子爵家の家督を正式に継ぎ、やがて2人の男の子をもうけた。うち1人は、ヴァンのように人見知りだったが、ジェーンもジークも根気よく接した。おかげで今では王都の学園で優秀な成績を治め、次代の担い手の1人になっている。
その様子を見届け、ダニーは暇をもらった。
(私が生き残った意味は……もうないのだ……)
ダニーが思い返すのは……ヴァンが生まれ落ちた日のことだった。
ヴァンは、ストレーリ子爵家の子供ではない。ストレーリ子爵家に仕えていた、とあるメイドが命と引き換えに産み落とした子供だ。
父親の名は不明、メイド自身も身寄りがないとあり、最初は孤児院へ預けることになっていた。ところが……ストレーリ子爵夫妻には、結婚してから5年も子どもができていなかった。
国では基本、長男へ家督を引き継がせる。
しかし娘さえいない状況では、家の存続も危ぶまれていた。
そこでストレーリ子爵夫妻は、この身寄りのない子供を自分たちの息子として育てることを決めた。
最初は何も問題がなかった。母親だったメイドに皆、同情していたし、ヴァンは偶然にもストレーリ子爵家に特徴的な、黄色と緑色が入り混じった目をしていた。ストレーリ子爵夫妻はともに子作りに励むための食事法を実践するなど仲睦まじく、お互いに浮気など少しも考えなかったようだ。
しかし2年もしないうちに、ストレーリ子爵夫人はジェーンを身ごもった。生まれてしまえば、我が子がかわいくて仕方がない。しかし娘へ家督を継がせるには、すでに長男として発表したヴァンの存在が邪魔だ。
そこでダニーが、提案した。
ヴァンを『できそこないの息子』に仕立てるという、残虐な計画だ。
たった2歳のヴァンはいないものとして扱われ、粗末な服と食事。それから悪意をもった噂と、ジェーンが知らないところで行われていた数々の暴力により、どんどん自信も自己も失っていった。
ジェーンは知らなかっただろう。
二つ向こうの部屋の中で、メイドたちに取り囲まれて。いったいヴァンが、どんな振る舞いを受けていたのか……。
ダニーにとって、ヴァン以上に、そしてジェーンよりも、彼らの両親が大切だった。ダニーにとってストレーリ子爵家とは、浮浪児だった自分を育ててくれた大切な恩人だったのだ。
雨の影響を受けて死んだ使用人たちは全員、ヴァンへのふるまいを承知していた者だけだ。どういうわけか、発案者のダニーだけが生き残った。
「……海神ラーヴェ様。貴方様は、ジェーン様を試されたのですね」
ジェーンは両親の影響を受けたが、やはり。才媛と呼ばれ、皆から慕われるだけはあった。家庭教師からの教えや、周囲の様子を注意深く観察し、やがて『兄であるヴァンへの皆のふるまいはおかしい』と気が付いた。
それだけではなく、いつかヴァンが仕返しをしてくることを、受け入れているそぶりがあった。
「ジェーン様は、怖がられたが、変わることができた。……改心なされたのだ」
百人が真摯に祈るより、たった一人の過ちを犯した者が心を入れ替えること。その方が、海神ラーヴェの心を癒したのだろう。
ダニーはそう、考えていた。
ヴァンが神子とは知らなくても、ダニーの案は神子を隠すことに繋がった。ゆえに、海神ラーヴェは、その結果をダニーへ見届けさせられたのだろう。
結局ダニーは、恩人の命を救うことは、何一つできなかった。
「そうだとしても……私は、海へ死にはしない」
砂漠の中へ、ダニーは歩いていく。やがてどこかの砂丘の片隅で、命を落とした老人の亡骸が転がるだろう。砂に埋もれれてしまえば、海へ還ることもない。
「私は、旦那様と奥様のために死ぬ」
すべてを喉の内へ押し込めて、ダニーは静かに目を伏せるのだった。
おわり
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