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黙ってはいけない気がした。
ひぐらしの独唱が二人の沈黙を際立たせる。じわりと汗が滲むのは、暑さのせいだけではない。
ベンチの両端に座る二人の距離は、人間一人分ほどだ。
文はハンカチを握りしめて、そっと隣を伺った。うつむいたまま捉えることができたのは、穂見のスニーカーだけである。白と茶色の淡い配色が、彼の柔和な人柄によく似合っていた。
視線を感じて顔を上げると、穂見と思いきり目が合った。
綺麗な流線で縁取られた瞳は、薄暗いホームでも静謐な光を湛えている。太陽の下では、深緋色がより際立つこともよく知っていた。
「ひとりになったら、鼠にさらわれそうだわ」
静寂を破った文の声は、がらんとしたホームに余韻を残すほどに響き渡った。
「それは、困ります」
ふっと緊張を解き、穂見はさらりと言いのけた。「まあ、俺が、必ず見つけだしてあげますけどね。……ていうか、よくそんな古い言い回しを知っていますね」
衣擦れの音もさせずにベンチから立ち上がった彼は、しなやかな猫のようだ。……なるほど、猫ならば、鼠を追いかけるのは得意に違いない。
「うちのおばあちゃんの口癖だったの。留守を任されると決まって口にしてた。寂しがりにもほどがある、って、母がよくこぼしてたわ。……まさか、通じるとは思わなかった。……穂見はどこか年寄りじみてるもの」
「ひどいな。俺と文先輩は、一つしか違わないことをお忘れなく」
七月下旬の夕暮れ時――前期授業が終了した大学の最寄り駅は、二人以外に客の姿はない。無人駅が連なる田舎町では日常の光景だ。
「じゃあ、行きます」
歩き始めた彼の髪が夕陽の下で輝く。茶色がかった髪は猫っ毛だ。うら寂しいホームを進む後ろ姿は背筋が伸び、弓を引く時の凛とした佇まいそのままだ。
すぐ先の踏切がカンカンと鳴り始めた。穂見は慌てることなく、高架駅の階段を下りている。通路に差しかかった彼の姿が見えなくなったので前を向き、ホームのフェンス越しの景色を見つめた。見渡す限り低山と田畑という絶望的な光景も、大学三年目のいまでは多少の親しみを覚えていた。
タッ、と、軽快な音とともに、穂見が向かいのホームに現れた。白い半袖シャツも、濃いベージュのチノパンも、痩せ気味の彼には少々ゆとりがある。
文の座るベンチ前まで颯爽と歩いてくる彼は、派手さはないが、人目を引く容姿と雰囲気の持ち主だ。だだっ広いホームは、さながら彼専用の舞台である。
『まもなく、二番線に、十八時十分発、急行佐谷行きが到着します……』
接近注意を告げるベルの音は、開幕ではなく、閉幕の合図だ。
電車が来るまでの間、わざわざ反対車線のホームに来て、部活の先輩の話し相手を務める彼をマメなヤツとだけ思っていた。
線路越しの真向いに立ち止まった穂見は、背景の緑ともども茜色に照らされている。馬鹿騒ぎと化す飲み会の場でも、部の女の子たちに囲まれた時も、常に静穏な空気を纏う彼の表情を確認する勇気が出ない。
(早く、来て)
唱えると同時に、真っ赤な車体が二人の間を遮った。
猛る獣の息に似た空気の圧縮音が、文ひとりが待つ駅を震わせた。ふしゅふしゅとひとしきり吐き出した後、一瞬の静寂に包まれて電車は出発する。穂見を乗せて、もう戻ることもなく。
(あと、五分)
遠ざかる轟音を聞きながら、深く一つ息を吐く。あと五分で、私はいつもの私に戻らなければならない。
穂見の存在を、心から押しやってしまわなければ。
『次の電車は、一番線、十八時十五分発、急行美浜行き……』
抑揚のないアナウンスの声が、現実に引き戻してくれた気がして、安堵の息が漏れた。
五分後、私は電車に乗る。穂見とは逆の、私が向かうべき、場所へ。
――俺が、必ず見つけだしてあげますけどね。
笑みを含んだ男の声が、夕風とともにふわりと蘇った。
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