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プロポーズは青葉に抱かれて
日曜のよく晴れた日。俺は彼女と電車に乗っていた。
ふたり並んで座席に腰をおろしている。手をつないだまま。
車内はそれほど混んでおらず、乗客は全員が座ることができた。
この列車はボックス席ではなく、一列の座席が向き合うタイプの車両だ。
車窓からの景色とともに、向かいの席に座る人々の顔が目に飛び込んでくる。
太陽の光がまぶしくて、後光を差しているみたいだ。みんな表情がよくわからない。
俺は列車に揺られながら、目を閉じた。
春って気持ちいい……。『春眠、あかつきを覚えず』なんて、昔の人はうまい言葉を作ったよ。
「あっちゃん、眠いの?」
「んー」
彼女の問いかけに、あいまいな返事をした。
「あっちゃん、疲れてる?」
瞬間、自分でもびっくりするくらい、体が震えた。目を閉じたまま、彼女の手を強く握りしめる。
……疲れてなんかいない。少し考えているだけだから。
おまえと俺のこれからのことを。
朝、顔を洗ってタオルで拭きながら鏡を見つめたとき。昼に弁当を食べているとき。会社帰りにスーパーで買い物したとき。ベッドでひとり眠るとき。
ふと思うんだよ。
『好き』だけで、暮らしていけるのか。いつかおまえは涙をこぼすんじゃないのか。
『私、どうしてあなたと結婚したんだろう……』
そう言って泣かれたら、俺はもうやっていけない。
彼女がささやいてきた。
「寝ていいよ。頭、こっちの肩に乗っけて、ね?」
俺は座り直すと、彼女の肩に頭を預けた。
「ごめんな……」
数週間前に居酒屋で、親友の芳樹に言われたことが忘れられない。
『臆病だし、全体的に頼りない』
あいつのことだから、冗談か酔って言ったんだと思う。ずっとつきあってきたからわかる。
……でも、ほんと、その通りだ。
ビビって何もできなくて、彼女に甘えて。抱きしめられて安堵する日々を送ってきた。
情けねえ男だよ。
眠りの底に落ちそうになりながら、何とか声を出した。
「……降りるのは三番目の駅だから……海、見えたら起こして……」
「わかった」
体から余計な力が抜けていく。彼女の手の温もりだけを感じる。
ガタン、ゴトンと揺れる列車の音に混ざって、彼女の声が聞こえてきた。
「お仕事がんばってるものね、あっちゃんは」
首を振ろうとしたけれど、眠くて、眠くてできなかった。
俺は、働き蜂みたいな男になりたい。
好きな女のために、汗を流して空を飛び回る働き蜂になりたいんだ。
「ああー、よく寝た。ありがとな」
目的地の公園に着くと、俺は大きく体を伸ばした。腕をおろすと、再び彼女と手をつないだ。
「うわあ、大きな公園だね」
「おう、結構いいところだろ」
海に面していて潮の匂いがするこの公園は、都市から離れているから地元住民しか知らないようだ。
家族連れが多くて、子供たちが遊具で遊んでいる。
気晴らしに車を走らせていたときに、偶然見つけた穴場スポットだ。いつか連れてきたいと思っていた。
彼女は辺りを見回している。口が開きっぱなしで、ちょっと間抜けに見える。
俺がデートに大福や羊羹を持ってきたときと同じ顔だな。
いまにも走りそうだから、手をぎゅっと握った。こけて膝をすりむいたら困る。
俺たちは、遊具のそばにある草むらに座って足を伸ばした。ここは芝生ではないから腰をおろしてもいいはずだ。
両手をつくと、刈られていない雑草がちくちくして心地よい。
「天気いいね」
「そうだな」
目の前に広がる景色を見つめた。雲はほとんどなく、海はおだやかだ。
……ずっと、こんな日が続けばいいな。
俺にどんなことがあっても、当たり前のように、こいつが傍にいてくれる。ふたりで出かけて、ただぼーっとする。
人から見たら退屈な日常かもしれないけれど、俺にとっては最高の日々だ。
景色を見るのに飽きたのか、彼女は俺の横で体を動かしている。笑いをこらえながら見つめた。
……こいつ、落ち着きないんだよな。ほっておいたら、髪をいじったり、スカートの裾を引っ張ったりしてひとり遊びしている。観察するのが楽しい。
「あっちゃん、動かないで!」
「うわ、何だ!?」
いきなり飛び乗ってきたと思うと、胸を押しつけてきた。欲求不満なのか? ここでするのはまずいだろ!
言い返そうとしたがやめた。
やわらかいし、甘ったるい匂いがする。ここまできたら触っていいよな。俺は悪くない。
彼女の腰に手を伸ばそうとしたそのとき。
「あったーっ!」
俺から降りて、彼女は四つん這いになっている。
「あっちゃん。見て、見て。四つ葉だよ」
「本当だ……」
周りにある三つ葉より、ひとまわり小さなクローバーが生えていた。よくこんなの見つけられたな。
彼女は、右手で抱えるようにして四つ葉に触れている。
「なんで取らないの? 珍しいだろ」
「取ってもすぐに枯れちゃうよ。それに、他の人にも見つけてほしいからこのままにする」
その返事を聞いて、ようやくわかった。こいつの好きなところが。
「……いつも、人のことを考えてるんだな」
「え?」
「おまえが気を使ってるから、みんな笑っていられる。俺もそのひとりだよ。自分が余裕あるからできるんだと思う。ほんと、えらいよ」
急に強い風が吹いて、何かを言おうとした彼女は身体を曲げる。
守るように、そっと抱きしめた。さっきまで聞こえていた子供たちの歓声が鎮まったような気がする。
「いまのままでもいいんだけどさ。これからは、おまえも楽して幸せになれよ。俺がしっかりするから」
「あっちゃん……?」
「俺と結婚しよう」
言った途端に体が熱くなった。
腕に力を込めて彼女を抱きよせた。俺の熱が伝わっているかもしれない。
「……うん」
甘えるように、頭をすり寄せてきた。どんな顔をしているのだろう。
泣いてんのかな? 笑っているのかな?
顔を覗き込みたいけれど、恥ずかしがるからやめておいた。
いつか聞いてみよう。
『俺がプロポーズしたとき、どんな気持ちだった?』って。
ほとんど言葉を交わさず、俺たちは駅に戻った。
「ちょっと待ってね」
「おう」
彼女は化粧室へ向かっていく。俺は壁際に立って、行き交う人々を眺めた。
ちょうど電車が来て、改札口からたくさんの人が出てきた。
杖をついた白髪のおばあちゃんが、ジャケットを羽織ったおじいちゃんに手を引かれて歩いている。
ふたりはキヨスクに入っていった。
おじいちゃんがペットボトルを指差すと、おばあちゃんは、首を振ったり頷いたりしている。
……俺たちは、どんな夫婦になるんだろう。
男は父親に似るらしいから、俺は口数少ない親父になるのかな。
喧嘩して自分が悪いと思ったら、お菓子を買ってきて何も言わずにお茶を出す。
おいしそうに食べるのを眺めて満足して、「これも食べろ」と自分のを差し出す。
……いまと変わらないな。親父と同じことをしてきたのか、俺は。
「遅くなってごめんね」
「あ……」
やってきた彼女に手を伸ばそうとしたが、見つめたまま動けない。
なんか、綺麗になったな。さっきと変わって見える。
俺のお嫁さんになる、って思ったからかな。
彼女の腕を引っ張ると、改札口と反対方向へ歩いた。
「ちょっと、あっちゃん」
「予定変更。記念にどっかの店でうまい飯でも食おう」
「いいの? やった!」
ふたりで駅を出て、横断歩道の前で止まった。青信号になるのを待っていると、彼女はうれしそうにしゃべった。
「何を食べようかな。記念日だからハンバーグにしようかな。オムライスもいいよね。ケーキも食べたいな」
次々と料理の名をあげる彼女を、何も言わずに見つめた。
俺、幸せだわ。たぶん世界一。
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