支えてくれてありがとう

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支えてくれてありがとう

『明良、よく覚えていなさい。おいしいお茶を淹れられるのが、本当のいい男なのよ』 おふくろは、親父の淹れたお茶を飲みながらそう言うのが口癖だ。きっと照れ隠しだったのだろう。 台所で、温めるために湯呑みに注いだお湯を捨てながら、俺は実家の光景を思い出した。 今日も湯呑みは、彼女と俺のふたつ分。 急須から流れる早緑の鮮やかさに目を奪われる。緑茶を淹れるときに最も心弾む瞬間だ。 お盆に湯呑みを乗せて、彼女が待つ隣の部屋に運ぶ。 「ほら。火傷しないように気をつけろよ」 膝をついて、テーブルに湯呑みを置く。 彼女はペンギンの絵柄で、俺はうさぎの絵柄。俺が勝手に用意したお揃いのものだ。彼女はうさぎを選ぶと思っていたのに、ペンギンが気に入ったようだ。 「ありがとう」 「うぐいす豆、食わないのか? うまいぞ」 皿に出しておいた豆菓子がちっとも減っていない。 「……ダイエットはじめた」 「なんで!? この前はそんなこと言っていなかっただろ?」 「ドレス着たいもん。こういうの」 彼女は膝の上に乗せている結婚情報誌の1ページを指差した。『大人の女性に大人気! マーメイドライン』と書かれてある。 くびれのラインが強調され、ふとももに布地が張りついたようなデザインのウェディングドレスの写真が載っていた。 ……これは厳しい。お尻の大きさがバレてしまうドレスだな。 「まあ、大丈夫じゃないの。豆の一粒や二粒食べたって、体重増えないから」 にじり寄り、彼女を後ろから抱き抱えた。うぐいす豆をひとつつまみ、彼女の口元に運ぶ。 「あーんしろ、ほら」 こいつ、腹減っているとつまんない顔するんだよな。何か食わせておけば、にんまりしている。 何も言わず、彼女は豆菓子を食べた。やっぱり、腹減っていたんだな。もうひとつ豆菓子をつまむ。 「もうちょっと食べろ」 ハムスターみたいにほおばるのが面白いから、いろいろ食べさせてきた。結婚式を挙げるまでは、むやみに餌付けするのは控えよう。 これで最後……という決意を込めて、俺は彼女にうぐいす豆を与えた。 彼女が豆菓子を噛む音を聞きながら、指を舐めた。砂糖の味がする。 「なあ、覚えているか? 俺が前にいた会社を辞めた頃のこと。ずっと閉じこもっていてさ……」 「うん」 うなずく彼女の肩に顎を乗せた。 俺は大学卒業後、同級生の皆が憧れる大手企業に就職できた。薔薇色の人生を歩むんだって、思っていた。 働き始めて俺は知る。夢を描いていたのだと。 責められ、どつかれ、「おまえなんか辞めちまえ」と上司にいわれた。 あの人は、俺の何が気に入らなかったのだろう。いまでもわからない。ただ怒りをぶつけたかっただけなのか、俺が本当に「できない男」なのか。 悪いのは会社か、上司か、それとも俺か。 答えが見つからない問いを己に投げかけるうちに、限界を超えた。 辞職届を叩きつけたけれど、見栄張った手前、親には打ち明けられなかった。どうすればよかったのか、何が間違っていたのかと、過去を問う日々が続いた。 デートも断るようになったから、彼女が俺の現状に気づいた。 あの頃は、晴れの日が続いていた。外に出かけたらどんなに気持ち良かったことだろう。 それなのに、彼女はいつも俺の傍にいてくれた。 ひげを剃らずスウェット姿でうずくまり夕日を眺める俺の横で、彼女は洗濯物をたたむ。「鼻歌なんか歌うなよ」と、俺がつぶやく日もあった。 何もなくなった俺。でも、彼女だけはいた。彼女が帰ったあと、布団のなかでひとり泣く夜もあった。 本当は、就職したらすぐにでもプロポーズしたかった。 おまえはかわいいし愛想もいいから、俺よりふさわしい男はたくさんいるだろう。そいつらがおまえを見つける前に結婚したかった。 ある日、部屋にひとりでいたときに、テレビから聞き慣れたメロディが流れてきた。 彼女が俺の隣で口ずさんでいた鼻歌の原曲だった。はじめて、歌詞を知った。 ゆるしてね なにもできないわたしを それでもおねがい そばにいさせて あなたが立ち上がったら わたしを忘れてもいいから どんな曲か訊いても、「おぼえてないんだ」とおまえは言っていたけれど、そんなことなかったんだな。 その日の夜、俺は実家へ電話をかけた。やっと素直になれた。 ……あれから、再就職先を見つけて、がむしゃらに働いてきた。部屋も引っ越した。 「森のなかで眠ったら気持ちいいよ」といい、彼女がつけた木々の模様がプリントされたカーテン。 「癒し効果があるかもしれない」といって、彼女が置いたガラスでできたイルカの置物。 新しい部屋に越しても捨てずに持ってきた。俺の部屋は、彼女の愛であふれている。 「あっちゃん、また何か考えているでしょ?」 問いかける彼女のほほに、唇を落とした。 あの頃よりは、俺もちょっとは成長したはずだ。彼女にささやく。 「安心しろ。俺を選んだことを後悔させないからな」
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