「きざし」2

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「きざし」2

 五月の第三日曜日は葉月の通う小学校の運動会だ。朝早くから母の陽子は弁当作りに勤しんでいた。渉が楽しみにしているちらし寿司もすでに重箱にぎっしりと詰められている。葉月の好きな唐揚げの隣には鶏肉で野菜を巻いて甘辛い味付けをした渉の好物が並ぶ。 「鶏かぶってんだけど」 「えー、好きでしょどっちも」  料理上手な母の料理はどれも美味しい。だがそれにしても今回はおかずの量も種類も多い。 「こんなに食べらんないよ。昼休憩短いし」 「渉くんもいるのに足りないくらいよ。優二さんは来られないけど、奈津美さんはフルーツ持ってきてくれるって。渉くんの大学次第では来年は集まれないかもしれないから、お弁当も気合い入れないとね!」  葉月の胸がまたチクリと痛む。当たり前に繰り返されていた交流は、年頃の葉月にとって正直うっとうしいものであった。だがこれで最後と言われると途端に寂しく思えてしまう。  渉が見に来てくれるのだ。恥ずかしがらずに一生懸命やり遂げよう、そう葉月は決心した。  午前九時、運動会の開始を告げる花火が上がった。気温は高いが六年生の各クラスの代表は選手宣誓と応援合戦のため黒い学ランを着ている。代表の葉月は、渉に自分の成長を見てもらうつもりで出せる精一杯の声を上げた。 「宣誓ー、我々はー」   渉は母と葉月の両親と四人でその声を聞いた。あの小さかった赤ちゃんが……、ここにいる全員が同じことを思っていた。渉の父の優二も今日を楽しみにしていたのだが、本社の呼び出しでは仕方がない。他に用事もあり昨夜泣く泣く東京へ発った。 『あなたったら、運動会は来年もあるじゃない』 『でも奈津美、葉月くんは小学生最後の運動会なんだよ』  海外に支店を持つ商社に勤める優二は、息子の渉から見ても格好良い。細身の体にぴったりのスーツ姿の父はモデルのようだ。渉が整った優しい顔立ちなのも母ではなく父親似だ。  そんな父が比喩ではなく泣いて悔しがっているのは滑稽かもしれないが、葉月を我が子のように思っているからだと渉には微笑ましく映った。 『ちゃんとビデオ撮っとくから、安心してお父さん』  渉は宥めるようにして父を見送った。そして葉月の勇姿を録画しながら、自分の子供の頃のことが思い出される。  たまたま隣り合った縁で、八城家に子供のいない六年間も、葉月が生まれてからも渉は実の子供のように育てられた。それは葉月の方も同じで、二人が兄弟のように仲が良いのも無理のないことと言えよう。 (だから決めなくてはならない。この想いを封印するのなら、遠くの大学へ行って葉月から離れなければ)  そんな渉の気持ちを知るよしもない陽子と奈津美は子供達の思い出話に花を咲かせている。 「幼稚園の初めての運動会で、葉月が転ばないかって心配してたこと思い出すわぁ」 「あら、葉月くんは最初から走るの速かったでしょ。渉は今でこそ何事も危なげなくやるけど、昔はのんびり屋だったから心配だったわ。葉月くんが生まれてからよね、良いお兄ちゃんぶって一生懸命やるようになったの」 (さすがお母さん、痛いところを突いてくる……)  確かにいつもお手本になろうとしていた自覚はある。葉月は「渉兄すごい」と言ってくれるが、六つも年が離れていればそれも当然だろう。むしろ少しお手本を見せれば出来るようになる葉月の方がすごいと、渉はいつも感心していた。  昼食休憩になり、児童はそれぞれ家族の待つシートへ向かう。葉月も三人のところへやってきた。 「葉月、お疲れ。大活躍だったね」  汗びっしょりの葉月に渉が冷たいおしぼりを渡す。 「サンキュー渉兄。来てたんだ」 「もちろん。葉月の格好いいところ見なきゃ。それにおばさんのちらし寿司も食べたかったし」 「でしょー。だと思ってたくさん作ってきたから召し上がれ」 「はい、頂きます」  渉は陽子がちらし寿司をよそった取り皿を受け取るが、葉月はすでに唐揚げを口に放り込んでいた。 「うまっ」 「ほんとに陽子さんはお料理上手よね」 「おばあちゃん子だったから田舎料理ばかりよ。私は奈津美さんみたいに洋風な料理をセンス良く作りたいんだけど」 「ありがとー、家の男共に言ってやって。お肉なんて塩こしょうで焼くのが一番だと思ってるんだから」  奈津美は学生時代を海外で過ごしていたこともあり、性格も開けっ広げだ。帰国後、東京の商社で働いている時に優二と出会って、彼がこちらの新設されたばかりの支店に異動が決まったタイミングで結婚した。初めは賃貸マンションに住んでいたのだが、気候と人柄の良さからこの地を終の棲家にと決めて、現在暮らしている一軒家を購入したのだ。奈津美は近くの教室で子供たちに英会話を教えている。  一方の陽子はこの町で生まれ、仕事で忙しい両親の代わりに祖母に育てられた。葉月が生まれるまでは看護師をしていて、夫の航平と出会ったのも病院だ。奈津美とは同い年と言うこともあって出会ってすぐに打ち解けた。 「あれっ」  渉が箸を止めて声を上げる。  普段は陽子がPTAの手伝いをしているが、今日は航平がバザーのうどん売り場に出ている。葉月の姿を見つけた航平がテントから大きく手を振っていたのだが、本人は食べることに夢中で気づかない。代わりに渉が手を振り返すと、航平はぶんぶんと両手を振り回し嬉しそうだ。 「おじさん存在感バッチリだよ」 「葉月も足が大きいから、将来お父さんみたいに大きくなるわね」  横から意味不明の母の言葉が飛んで来る。 「俺は犬かっつーの」 「小さい頃は渉くんにちょこちょこついて回って、ワンコみたいに可愛かったわよ」 「なんだよソレ……」  すっかり犬扱いの葉月に渉が助け船を出す。 「リレーすごかったな。前の子が転んで全員に抜かれたのに、すぐに追いついてごぼう抜きして一等でゴールだもんなー」  唐揚げの後、結局鶏肉の野菜巻き、ハンバーグと諸々の母の手料理を食べた葉月は、奈津美が持ってきたフルーツゼリーを頬張っていた。一晩凍らせたゼリーは程よく溶けて、中のメロンとマスカットのシャリシャリとした食感を名残惜しみつつ渉に答える。 「だって、負けたら転んだ子の責任になるだろ?先生は皆が一生懸命に走ったら家族は喜んでくれるって言うけど、俺が頑張って一位になれるならその方がいいじゃん」 「さすが葉月」 「別にっ、クラスが総合一位になったら宿題なしって言うから全力出してみただけだし」  照れ隠しに麦茶を一気にあおった。渉は自分の為ではなく人の為に頑張れる葉月が好きだ。正義感が強く、他人を思いやれる姿は年下だが憧れる。 『体育委員の人はテントに集まってください』  校内放送が流れると、葉月はすぐにブルーシートから立ち上がった。まだ全体の休憩時間は半分ほど残っているが、体育委員は午後の種目の準備など役割が多い。 「ごちそうさま。行ってくる」 「午後も頑張れよ、葉月」 「うん!俺頑張るから見てて、渉兄」  日に焼けた笑顔が眩しい。渉は「見てるよ」と目を細めた。  宣言通り、午後の競技でも葉月は大活躍だった。特に盛り上がったのは騎馬戦だ、身軽な葉月は敵チームからひょいひょいと帽子を奪い取り勝利に貢献する。そして見事、クラスは競技種目や応援の全てで好成績を収め総合一位に輝いた。  運動会の帰り道、葉月は上機嫌だった。今日の振り替えで明日は学校が休みだし、自分のクラスだけは宿題がない。一日中ゲームが出来ると無邪気に喜ぶ葉月を見て、渉は心に決めたことがあった。 (やっぱり地元の大学にしよう。想いを告げることはできなくても、近くにいて葉月の成長を見ていたいから)  暫くして、渉は父から東京の本社に転勤が決まったと聞かされた。以前から話はあったようだ。 「それで、せっかくなら渉も東京の大学に通うのはどうかな。会社が買い上げたマンションに住むことが決まってるんだが、長くなりそうなんだ。その間この家は人に貸しても良いし」  黙って話を聞いていた渉だったが、真っすぐに父に向き合い自分の決心を語る。 「お父さん。俺一人で残っていいかな、勉強も生活もきちんとするから。俺こっちの大学に通いたい」 (葉月と距離をとるか悩んだ日もあったけど、近くにいると決めた。この先、葉月が誰を選んでも後悔しない) 「私達はそう頻繁には帰って来られないんだよ。いくら長いつき合いだと言っても八城さんのお宅に迷惑を掛けてはいけない」 「大丈夫だよお父さん。俺はここで生きていきたい、生まれ育ったこの町で。卒業後もこっちで就職したいんだ」  渉の覚悟がよっぽどのことだと父にも伝わったようだ。 「そうか……。渉が考えて出した結論なら私は応援するよ」 「ありがとう、お父さん」  自分を外して話を進める二人に母は不満げだ。 「もう、勝手に決めて。せっかくマンションの近くに大学もあるから通えるのに」 「ごめん。でも近いからって行きたい学部があるかどうか。近くの大学ってどこ?」 「ん?東大」 「お母さん……」  自分の母親ながらアバウトすぎる。いっそ母に性格が似れば楽だったのにと渉は苦笑する。 「今から頑張れば余裕でしょ。渉、成績良いもの」 「奈津美、渉が自分で決めたことだ。親である私たちは応援しよう」 「そう?……そうね。自分から何かをやりたいなんて言ったことなかったものね」  渉は小さな頃から手のかからない子供だった。まして隣に葉月が生まれてからは親を困らせたこともない。 「家、大事に使ってね、時々チェックしに帰るわよ」 「うん」  ほっとしたのと同時に渉は自分がおかしくなった。葉月がいつまでも隣にいるとは限らない。県外の大学に進学して、そのまま就職する可能性もある。  ここにいたとしても、葉月がいつか好きな女の子を連れて来るかもしれない。将来結婚を機に新しい場所で生活することもあるだろう。  それを笑って見送れる自信も今の自分にはないのに……。
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