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「きざし」7
それぞれが気まずい渉と葉月は、もうずっとお互いを避けていた。学校の帰り道でどちらかが姿を見かけても速度を落とし、追いつかないように歩いた。
七月のある日、渉が夕方自宅に着いて鍵を開けると近くで「ワン」と犬の鳴き声が聞こえた。声のする方を見ると、葉月が大きめの仔犬を抱いて立っている。
「えっ?どうしたのその子」
仔犬も、仔犬を恥ずかしそうに抱いている葉月も可愛い。
渉は高山との関係が後ろめたくて避けていたことも忘れて八城家の庭に入った。
「ゴールデンレトリバーだよな。かっわいいなー」
渉は仔犬を受け取り、よしよしと頭を撫でたり抱き上げたりしている。
「名前なんて言うの?」
「……カイ」
「カイかぁ。どうしたのこの子。預かってるの?飼うの?」
「……」
「ん?」
葉月が黙っているので、渉は答えを促すように首をかしげる。
「……少し早いけど誕生日プレゼント。母さんが仕事に行くようになったから番犬だって。それと、弟がわりに面倒みてって。俺のこと幾つだと思ってるんだよな」
「もうすぐ十三歳だもんな。……ちょっと待ってろ」
渉はカイを葉月に返して自宅へ向かった。暫くすると渉は小さな袋を提げて戻ってきた。
「はい」
「俺に?」
カイを抱いたまま、渉に差し出された袋を受け取る。中を覗いた葉月の表情が輝いた。葉月が元基の家でプレイして楽しかったと言っていた対戦型のゲームソフトが入っている。
「わあ、これ欲しかったんだ」
「少し早いけど、誕生日おめでとう」
「ありがとう。覚えてたんだ、俺の誕生日」
「当たり前だろ。八月八日生まれの『葉月』だぞ。忘れるほうがムズイわ」
「バカにしてる……」
小さく唇を尖らせて抗議する。
「してないよ。良い名前だと思ってる」
「だって、女の子の名前みたいだろ」
でも似合ってる、と言いそうになって、それも嫌なのだろうかと思い「そんなことないよ」とだけ言う。
葉月はソフトを見たままもじもじしている。一緒に遊びたいのだが、気まずさから誘えない。渉は葉月の気持ちを感じとり、自分の方からゲームに誘った。
「これ、二人でやった方が面白そうだな。一緒にやろうか」
「うん!」
葉月の久しぶりの笑顔だ。高山のことも、葉月が好きな子のことも何も解決したわけではない。でも今は以前のように二人でゲームが出来る嬉しさで、そのことには目を瞑ることにした。
そして二時間、あまりにも面白くて夢中でやっているところに葉月の母が帰ってきた。
「あー、葉月。カイの様子を見れない時はケージに入れといてって言ったでしょ」
振り向くと、二人がゲームに熱中している間にスリッパをかじったり、リビングのラグに粗相をしたりと部屋を荒していた。
「ごめんなさい、おばさん。俺が葉月にゲームしようって言ったから……」
渉は頭を下げるが、葉月はそこへ割って入る。
「違う!俺がカイを見てなかったのがいけなかったんだ。渉兄も悪くない。俺がゲームに夢中になったから」
「まあ、葉月……」
昔から優しい子だったが、息子が思い遣りのある姿を目の当たりにして母親として喜ばずにはいられない。犬を飼ったのは成功だわと陽子は微笑む。
「渉くん、うち来るの久しぶりよね。夕食一緒に食べていって」
「いや、でも……」
「支度をする間に、二人でラグをコインランドリーで洗ってきてくれると助かるわ」
二人は顔を見合わせて頷いた。
「行ってくる!」
渉が庭のホースでラグを水洗いしている間に、葉月はリビングの床を拭いた。大きなビニールバッグにラグを入れ、二人は近所のコインランドリーへ向かった。
渉はジャブジャブと洗濯の音を聞きながら、昔のことを思い出していた。
(そういえば葉月が小さい頃家に来て、遊ぶのに夢中になっておもらししたっけ)
『ママにおむつでいきなさいっていわれたのに、パンツできちゃった』
ベソをかく葉月の頭をポンポンと撫で「大丈夫だよ」と言い、買って貰ったばかりのキャラクターの下着とズボンを洗ってやった。夏だったがなかなか乾かず、最後はドライヤーで乾かした。そんなことが何度かあったなと思い出し笑いをしてしまい、葉月にもその表情ですぐに伝わる。
「俺がもらしたこと思い出してたんだろ」
「子供の頃のことだから仕方ないじゃないか。それに可愛かったし」
「だからヤなんだよ。六つも年下だからずっと子供扱いされる」
いつまで経っても埋まらない歳の差を感じているのは葉月だけではない。
「俺は葉月にいつおじさん扱いされるかってヒヤヒヤしてるよ」
ここ暫く自分から会わないようにしていたが、それだって以前なら葉月の方からすぐ会いに来たはずだ。中学に入って世界が広がった葉月に、自分はもう必要ないのかもしれないと落ち込んでいた。昔からゲームを一緒にやるのも、少しでも共通の話題が欲しかったからだ。
「おじさんだなんて思わないし。……渉兄は渉兄だから」
「サンキュ」
洗濯とすすぎが終わり、軽く脱水したラグを持って家に帰る。庭から入りそのまま物干しに広げていると家の中から母の声が聞こえた。
「ありがとう、二人とも。もうすぐお寿司できるわよ。手を洗ってきて」
「はい」
普段であれば前日から下準備するのだが、今日は急きょ夕飯を変更したものだ。間に合わせの具材ではあるものの、料理上手の母は短時間で作り終えた。
大皿に盛られたちらし寿司に葉月が金糸卵を乗せ、渉が皿を並べていると葉月の父親の航平が帰ってきた。
「あれ、久しぶりだね渉くん。大学はどう?」
「こんばんは、お邪魔してます。どうにか慣れてきました。勉強より家事が大変です」
「だと思って今晩はちらし寿司よ。今年は葉月の運動会でも作らなかったし。渉くんたくさん食べていってね」
「はい。ありがとうございます」
話している間に元々の献立だった野菜の天ぷらが食卓に並べられ、偶然にもこの辺りのもてなし料理が出来上がった。久しぶりの手料理に喜ぶ渉と、一緒に食事ができて嬉しい葉月だ。
途中、父からの「大学で友達はできたの?」という問いと、母からの「大学でもモテモテでしょ」という言葉に葉月はイラつき、渉も「はあ、まあ」と曖昧に返すしかなかったが。
「渉兄。ゲームの続きいつやる?」
「またゲームばっかり……あら、新しいの買った?」
お茶を入れていた母がテーブルの上のゲーム店の袋に目を止める。
「渉兄にもらった。誕プレだって」
「やだあ、ごめんね。ありがとう渉くん。葉月ったらちゃんと言ってよね。あと、ゲームは一日一時間……」
「あっ。俺っ、宿題やんなきゃ」
これ以上のお小言は面倒だ、と葉月が席を立とうとしたタイミングで渉も声を上げた。
「あれ?もしかして俺、家の玄関の鍵かけてないかも。おばさん、ごちそうさまでした。さようなら、おじさん」
「ああ、いつでもいらっしゃい」
「はい」
葉月はケージから出たがっていたカイを抱いて、玄関まで渉を見送る。
「可愛いね、カイ。良かったな犬もらって」
「えーっ、俺は携帯電話が良かった」
少し不満げに言う。
「そうかな、もう情が移ってるくせに」
「まあ、……可愛いけど」
カイがくうんと鼻を鳴らす。
「二年になったらさ、バイトするから」
「うん……」
今よりもっと忙しくなり、あまり会えないと言われるのだろうかと葉月は不安になる。だが渉は思いがけない言葉を用意していた。
「来年の誕生日はもっと良い物やるからな」
「えっ?」
「携帯は無理だぞ。何か欲しい物考えとけ」
「ほんとに?……でもいいよ、渉兄だって欲しい物あるでしょ」
こういう時、渉は年齢の差を感じてしまう。葉月が遠慮しなくてもいい喜ぶ物をと考え、苦もなく思いつく。
「じゃあ、来年の誕生日もゲームのソフトな。俺がしたいやつ買うから一緒にやろうよ」
「うん!へへ」
ゲームを貰えるのが嬉しいのだろうと思っていたら、葉月は、照れくさそうな笑顔を渉に向ける。
「来年の誕生日も渉兄と一緒にいられるんだね」
「……っ!」
こんなに嬉しい言葉を貰えるとは……。昨年の自分の決断は間違っていなかった。葉月に好きな人がいても構わない、このままずっと傍にいよう。葉月を抱きしめたくなる気持ちを何とか抑えた。
「来年も、……再来年もな」
やっとそう言うと、渉は玄関の扉を開けた。
「俺もまだまだ先だけどバイトしたら、渉兄が喜ぶプレゼントあげるから待っててよね」
「ああ、楽しみにしてるよ」
来年も再来年も、その先もずっと誕生日を一緒に祝えますようにと二人はそっと祈った。
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