「そらの名前、うみの名前」3

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「そらの名前、うみの名前」3

 それから高山は何事も熱中するということがなかった。勉強さえしていれば学校は何も言わない。同時に何人も関係を持ったことが知られて面倒なことになってからは、相手は一人だけと決めていた。  三年の夏休み、お盆の墓参りを済ませて祖父と二人でいる時に静かに話を切り出された。 『高校で随分と羽目を外しているらしいな』 『ばれちゃいましたか』  教師の誰かが祖父の耳に入れたのだろう。 『遊ぶのが悪いとは言わないが、もう進路を決める時期だ。大学で学びたいことはないのか?』  祖父の言葉に深い息をもらす。 『大学に行くのは決定なんですね?』 『……他にしたいことがあるなら』 『ありませんよ、何も。大学を卒業したら従兄弟達の邪魔しないように、お叔父さんの下で働きます』  大手のコンビニと取り引きが出来てから、会社は益々大きくなった。叔父の働きによるところが大きい。叔父家族も良い人だが、高山は打ち解けられずにいた。 『……お前は運命を呪っているのか?いっそ家族と一緒に死ねば良かったと思っているのか?』 『そんなことはありません。両親と兄が守ってくれて命は助かって、お祖父さんの財力のおかげで良い生活が出来るんですから』  嘘だ、一人残されたことが置いて行かれたように今も辛かった。  だが両親と兄が守ってくれた命だから、自ら絶つことだけはしてはいけないと、それだけは強く律していた。 『息子達を亡くした私がこうして生きていられるのも、それが何かの巡り合わせだと思っているからだ』  辛いのは祖父も同じ、いやそれ以上かもしれない。生きてきた長さが違うと言えばそれまでだが、自分には到底真似できない。 『俺にもそれを受け入れろと?』 『それはお前次第だ。ならば両親の気持ちを知るというのはどうかな。人がなぜ神仏を崇めるのかを学んでみてはどうだろう』 (ああ、なる程。素行の悪い俺に信仰心を芽生えさせて更生させたいってことか) 『いいですね、面白そうだ』  祖父の真意がどこにあるのかは別として、未成年の自分が大学や生活の資金を出してもらえるのだ。祖父の勧める道を選んで悪いことはないだろう。もし本当にその中に一筋の光が見えるならそれも良し。当時の高山には何も望むものはなかった。  翌年、宗教哲学学科のある大学に進学した。一年の一般教養を経て、二年になると具体的に宗教について学ぶ講義が取れるようになる。熱心な学生が多い中、高山には理解できなかった。  仏教学が専門の檜垣教授は仙人のような風貌をしていた。杖をついていないのが不思議なくらいで、いつも穏やで白い口ひげと長いあごひげを蓄え、優しいと学生に評判の教授だ。  そんな檜垣に高山は何度も呼び出され、その度に鬼のような形相で注意を受けた。 『自分の意見を持つのは構わない、だが真剣に学びたい学生がいる場で「宗教も、信仰も、それを学問として学ぶのも時間の無駄」そう言って授業を妨害するきみは周りの迷惑でしかない!』  『だって本当のことでしょう。弱い人間がいもしない偶像にすがるだけのこと。俺には理解出来ません』  毎回頭から湯気の出そうな勢いで言い合いになる。 『待って下さい教授、高山くんも落ち着いて』  その度に間に入ってくれたのが、准教授の桑原宇宙だ。 (三十手前で准教授なのは何かコネがあるのかな?)  最初の講義の時、桑原が黒板に大きく自分の名前を書きながら自己紹介していた。 『宇宙と書いて「そら」と読みます。いわゆるキラキラネームですね。見た目とギャップがありますが、僕は父のつけてくれたこの壮大な名前を気に入っています』  そう言って笑った桑原は真っすぐな髪を額に下ろし、黒ぶちの眼鏡を掛けた真面目を絵に描いたような男だった。キラキラというには少し地味だろうか。だが肌が綺麗で小柄で、学生に交じっても違和感がないくらい若く見える。 『檜垣教授、彼は今自分を探っている時なんですよ。僕なんか信仰があるのが当たり前の環境で育ってきましたが、彼はそうではない。逆に教えられることがあるのではないでしょうか。僕は変わっていく高山くんを見届けたいと思います』  若い桑原の柔軟な考えと熱心さを檜垣も渋々受け入れる。 『まったくお人良しだなきみも。だが確かにきみの言う通り、ここで彼を突き離してしまうようでは何のための宗教哲学だろうか。意見の異なるものを排除しようと、過去にどれだけの争いが起こったか。……わかった、きみがそこまで言うのなら』  桑原がとりなしてくれたおかげで何とか首は繋がったが、自分では大学など祖父の顔を立てて入ったようなものだ。高山はいつ辞めても構わないと思っていた。  桑原の「日本の巡礼」の講義の中でのお遍路でのこと。江戸時代、お参りに行けない庶民が犬に託すという話になり、高山はありえないと笑った。 『高山くんは笑うけど僕は良いなと思うよ。それに四国には「お接待」という文化が根づいているんだ。お遍路の地にいても巡れない人はいて、お接待をすることで自分の代わりに巡ってもらうのだと言われている。讃岐はうどんが有名だから、いつか僕もお遍路をして本場で食べたいんだ』  そして高山に語り掛けるように桑原は続ける。 『お接待された人はまた誰かに親切をする。それは親子の愛情と同じじゃないかな。親からもらう愛情は大きすぎて返せない。だから子供は自分の子供に無償の愛情を注ぐ。そうして繰り返し命は繋がっていくんだと思うよ』 (じゃあ途中で親から愛情を貰い損ねた俺はどうしたらいいんだ?男にしか欲情しなくなった自分は結婚も子供も持てない。だから貰わなくていいと言うのか?)  バカバカしい、と高山は思った。試験の解答用紙に、問題は一つも解かずに提出した。白紙ではない、紙一面に『神も仏もいない』と書いたのだ。  慌てたのは解答用紙を整理していた桑原だ。授業を終え帰ろうとしていた高山を准教授室に呼び出した。本当は解答用紙を書き直してはいけないのだろうが、せめて白紙で出すよう言われた。だが高山は受け入れない。 『俺もう大学続けるつもりないから』 『どうして?』  問われた桑原にため息混じりで答えを返す。 『好きでここに来たわけじゃない。もう勉強するの嫌になったんだよ』 『そんな……。まだこの答案、檜垣教授の目に入ってないから考え直して』 『学生一人辞めたってあんたには関係ないよな?むしろ授業を妨害する俺がいない方が楽だろ』  放っておいてくれても良いのに、あまりのしつこさに高山の方が呆れる。 『違うよ。高山くんにはきちんと卒業してほしいんだ。何かの宗教を信仰してほしいんじゃない。信仰する人々の気持ちを知って、きみを一人残して先立たれたご両親の無念と愛情をわかって欲しいんだ』  桑原が両親のことを知っていることに驚く。 『何で……』 『ごめんね、家庭調査票見たんだ。どうして高山くんが信仰を拒んでいるのか気になって、当時の新聞記事もネットで見た』 『勝手なことすんなよ!』 『悪いと思ったけど、高山くんの気持ちが知りたかったから。事故で一人残されてどんなに辛かったか。でもきみはみんなに愛されていた。大きな怪我もなく生き残ったことが守られた証しだよ』 『わかったようなこと言うな。何も知らないくせに』  そのまま部屋から出ようとする高山の腕を取る。 『じゃあ教えてよ、高山くんのことを。きみの名前をつけたのはご両親だよね、だから……』 『うるさい!』  取られた手を払い、高山は桑原の方に向かい両腕を掴んだ。
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