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「願い」6
夏休み前の懇談会、担任の佐藤は今回葉月が成績の悪かった数学担当だ。かなり絞られると覚悟していたが意外なほど叱られなかった。
「いつも点数の良い科目の最終日のみ大きく順位を下げてたんでね、体調でも悪かったんでしょう」
(さすが教師生活も三十年にもなると、普段は厳しいのにこういう時は無駄に叱ったりしないんだよな)
葉月はシメシメとほくそ笑んでいるが、母はビシッと喝を入れて欲しい。
「でも先生、ゲームばっかりして勉強しないんですよ」
「やってるし……」
ぶつぶつ言っていると佐藤の方から助け船を出してくれる。
「葉月くんは普段の授業態度も良いし、提出物も滞りないですからね。クラスのムードメーカーで誰とも仲が良い。──それにお遍路さんに親切なんだよな」
何でそれを……と葉月が不思議に思っていたら母が何か思い出したようだ。
「そう言えば先生の奥さん、お寺によくお手伝いに行ってらっしゃるんですよね」
「ええ」
へーと驚きつつ、良いことはしておくものだ、うんうんと頷く葉月に佐藤がニッと目を細めた。
「ま、だから特別にワーク二冊で勘弁してやる」
「えーっ」
飴とムチかよ、と葉月はげんなりした。
学校からの帰りの車で、母からのお小言は続いていたが、やはり塾の話が出た。
「あんまり勉強しないならゲーム禁止にするわよ。嫌なら塾通う?通信教育でもいいし、前みたいに渉くんに勉強見てもらうのはどうなの?」
(やっぱり言われた……)
「たまたま調子が悪かっただけだよ。夏休みにちゃんと宿題やるし、二学期からは学校の勉強もっとする。それに渉兄はバイト始めたから忙しいんじゃないの?無理言ったら悪いし」
元基に渉の話をされてから、母に同じことを言われた時に断る理由をしっかり用意していた。
小学生の頃なら何も考えずに喜んでいただろう。あの頃は一つ問題が解けるたびに褒めてもらい、一緒にいられることが単純に嬉しかった。だが今のように渉への恋心を自覚していては、二人きりでどう接すればいいのかわからない。
「あら、あなたがそんなこと言うの珍しいわね。渉くんに勉強教えてもらうって喜ぶかと思ったのに。でも確かに学校とバイトで大変なのにお願いしちゃ悪いわね」
何とか母は、塾も渉に勉強を教えてもらう案も諦めてくれたらしい。
「そう言えば渉くんのバイト先のカフェに、お友達と行ってみたけどランチもケーキもおいしかったわよ。」
「ふうん」
そっけない返事をした葉月だったが、実はバイトを始めたと聞いて店の前まで行ったことがある。白いシャツに黒のズボン、濃いオリーブ色のカフェエプロンを着けた渉がコーヒーを運んでいる姿があまりにも様になっていてドキドキした。
店内を覗いていたら注文を頼む女の子達が渉を見て赤くなったり、離れた席から携帯で写真を撮ったりしているのが見えた。そしてそんな女の子に優しく微笑む渉にムカついてそのまま帰ったのだった。
「今度行くよ……」
家に着き、車から降りながら母に言った。
「そう?カイただいま。あら」
母が玄関のドアを開けると、散歩セットを足元に置いてボールを咥えたカイが待っている。
渉とカイの散歩に行くとよく「取って来い」をさせられる。遠くに投げたボールを追い掛けては咥えて戻ってきて、もう一度と繰り返すこの遊びがカイは大好きだ。早々に切り上げてしまう葉月とは違い、渉は腕が怠くなるまでつき合ってやっていた。
母がリビングに向かったのを見て、葉月はしゃがんでカイの頭をそっと撫でてやる。
「お前も渉兄と遊びたいんだよな。でも待ってるだけ。俺と同じだ」
昨年の春にもつまらないことで喧嘩をして、そのまま夏休みまで仲直りできなかった。後で渉は大学に入ったばかりで忙しかったからと言っていたが、あの時も本当は自分を避けていたのではないのか。あんなのもう二度とごめんだと思っていたのに、なぜ同じことを繰り返してしまうんだろう。
(夏休みになったらゲームとか、プールや映画にも一緒に行きたいし。それだっていつまでも出来ることじゃないってわかってるのに……)
母親がジャケットを脱いでいると、カイの散歩に出ようとしている葉月に気づいた。
「あら散歩?まだ暑いわよ」
「うん。ちょっとだけ」
カイは首輪にリードを着けられ嬉しそうに外に出ると、立ち止まって隣の渉の家の方を向いてクウンと鼻を鳴らす。
「だめだよ。行くよ、カイ」
優しく言ってから足早で通り過ぎた。
カイを一番世話しているのも、もちろん懐いているのも葉月だ。でも渉が家に来ると喜んで一緒に遊ぼうと誘い、渉が帰らないようにと靴を隠してしまう。
「本当にカイは渉兄のこと好きだよな」
声に出してハッとした。
公園に着いて、誰もいないことを確かめてカイの首輪のリードを外して自由にしてやりボールを投げる。
「俺もカイと同じなのかなー」
自分は生まれた時からいつも一緒に遊んでくれる渉に懐いているだけなのかもしれない。
(いや、違う。そうじゃない)
初めはそうだったかもしれない。でも胸を掻きむしる様なこの焦れた想いと、同性なのに体を繋げたいと思うほど相手を求める気持ちはそれとは違うと葉月は大きく首を振った。
渉に会いたい。だが会ったらきっと何もかも吐露してしまうだろう。本当は渉のことが好きなんだと。でもそんなことをすれば今の関係が壊れてしまう。少し会わないでいれば気持ちも落ち着く、そうしていつもの手が掛かる弟として傍にいよう。
ここ最近ずっと同じことをぐるぐる考えていて、自分で呆れて苦笑した。
「カイ、帰るよ」
結構遊んでやったはずだが、リードを付けようとすると身をひねる。
「カイ」
何度目かに諭すようにしゃがんで名前を呼ぶと、やっと大人しく従った。
散歩から帰った葉月はカイの足を庭で洗いながら、渉が帰ってきたらどうしようと急に焦り出した。会ったところで渉のことだ。いつものように話し掛けて「この間はごめん」と謝ってくれるだろう。自分が悪くなくても今までそうして葉月と仲直りしてくれていた。それは大人の渉が子供の葉月の機嫌をとっていたのだと今ならわかる。
濡れた足もそこそこに家の中に入ると母に窘められた。
「葉月。カイの足ちゃんと拭いてないでしょ、床びしょびしょ」
飛び込むように家の中に連れられたカイの足からは、まだポタポタと水が滴っている。
イライラしていた葉月は母に突っかかってしまった。
「わかってる、今拭くから!」
「もう、変な子ね」
「俺が犬飼いたいって言ったんじゃないのに、散歩とか世話すんの俺ばっかり」
「朝はお父さんが行く方が多いでしょ。葉月はカイの面倒みるの嫌なの?」
「そういうことじゃなくって!」
これは単なる八つ当たりで、カイも母も悪くない。二人のやり取りを見る目が寂しそうに感じてしまう。
「何でもない。カイは大事だって思ってるから、どっかにやったりしないでよ!」
「えっ、しないわよぉ」
戸惑う母の視線を背中に感じながら、葉月は濡れた足と床を雑巾で念入りに拭く。そしてカイの正面に正座して言い聞かせる。
「いいか、お前のこと嫌ってるんじゃないからな。ヤンチャでちょっと手のかかる弟分って思ってるけど大好きだからな」
「ワンッ」
嬉しそうにしっぽを振るカイを抱きしめながら、その言葉は全て自分に返ってくるようでやり切れなかった。
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