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「願い」7
「もう九時か……」
片目で時計を見て葉月は体を起こした。
夏休みに入って暫くは早起きして午前中に宿題をしていた。次第に母が起こしにきても「もう少し」「あとちょっと」あげ句「休みなんだから寝かせといてよ」とゲームでの夜更かしで昼まで起きてこない生活になっていた。
「本当は夏休み前のテストで頑張って、休みに入ったら家の手伝いでポイントを稼いで誕生日には携帯電話を買って貰おうと思ってたのになー」
そういう今日も明け方までゲームをして、元基との約束があるから少しだけ寝て起きたところだ。
(携帯があったら渉兄にもすぐ謝れたかな……)
元基は両親が仕事で遅くなることもあって小学校の高学年から携帯を持っていたし、同級生の多くは中学に入って買ってもらっている。葉月も両親に頼んだこともあるが、部活に入っている訳でもなく塾の送り迎えに必要ということもない。友達との連絡に使うと言っても、家の電話で済むだろうと却下されてしまった。
普段はそれでもいいが、今日は元基と隣の市のプールに行く約束をしている。こんな時に携帯があれば便利だろうと思うのだが、実際は家を出る時に元基に連絡すれば特に困ることもない。
ガレージの自転車の前かごにプールバッグと水筒を放り込んで表に出る。つい隣の家を確認してしまうが、渉の自転車も見えないし、どうやら家にいる様子はなかった。
葉月が西村不動産に着くと、元基は自転車の鍵を外しているところだった。
「おう、葉月。海パン持ってきたか?忘れてねーだろうな」
「お前だろ。みんなで海まで行って、海パン忘れてブリーフで泳いだ恥ずかしい奴」
「あれ小学生の時だろー。今はトランクス派。忘れないようにズボンの下に海パン履いてるもんね」
「マジか。……一応聞くけど、帰りのパンツ持ってんだろうな」
「あっ!」
元基は慌てて店の中に入っていく。家は少し離れた所にあるのだが、夏休みの間は昼食の支度も面倒で店にいることが多い。社員が出払っている時に電話番や来客の応対などをして、ちゃんと役にも立っている。元基は朗らかな性格で人と話すのが得意で、そういう点でも葉月と似ているのかもしれない。中から母に「もう忘れものはないの」と聞かれ、舌をだしながら戻ってきた。
「へへ、別にノーパンにズボンで帰ってもいいんだけどさ」
「ならそうしろ」
いやいやと照れ笑いしながら、手にしていたビビッドなオレンジ色のトランクスをプールバッグに突っ込む。
(オレンジかよ。しかもバッグからはみ出てるし)
細かいことを気にしないところも一緒にいて楽だ。
市民プールはここ数日の暑さでかなり混雑していた。何とかロッカーをキープして、申しわけ程度の準備体操をする。
流れるプールに身を委ねるのも好きだが、中学生の葉月と元基が楽しみにしているのはウォータースライダーだ。高低二本あり低い方は子供向けで傾斜も緩く距離も短い。二人はそちらよりずっと急で距離も長い大型のスライダーから競うように何度も滑り降りる。滑っている時のスピードは爽快だし、スライダーのスタート地点へ向かう階段を登りながら景色を見渡すというのも一興だ。
「尻いてー。流れるプールとかスライダーとか、俺流しそうめんになった気分」
「お前がそうめんなら食いたくねーわ」
葉月は元基の独特な表現に突っ込みを入れつつ、初めてウォータースライダーに挑んだ時のことを思い出していた。
それまでは誰かが滑っているのを見ているだけだったが、あまりに楽しそうで、自分もしたいと一緒に来ていた渉にせがんだ。だが小さかった葉月は階段を登る途中で怖くなり、渉に抱いて降ろしてもらったのだった。
(あ、また渉兄のこと考えてる……)
だって、と葉月は自分に言い訳をする。
(だってここへは渉兄と何度も一緒に来たんだから)
プールでのルールや泳ぎ方を渉に教えてもらったのはここだ。帰りにアイスを買って、食べる前に落として渉のを半分こして二人で食べた。帰りのバスの中で眠くなり渉におぶって帰ってもらったこともある。この市民プールには数えきれない程の思い出が詰まっている。
あまりの暑さと人の多さもあってクタクタになった二人は少し早いが昼過ぎには帰ることにした。何か食べようという話になって、安くて腹も膨れるからと、よく行くうどん屋に寄る。
いつもは「夏でも温かいかけうどんだよな」と通ぶっては汗びっしょりになって帰る二人だが、今日はさすがに暑いので葉月はぶっかけの冷たいだしを選び、元基はざるうどんを頼んだ。
葉月がちくわの磯部揚げを乗せているのを見て、元基もセルフ棚からゆで卵の天ぷらを追加する。天ぷらの中が絶妙にとろとろの半熟卵になっていておいしい。葉月も月見うどんではなくあえてかけうどんに乗せて食べることもあるが、チラリと元基を見てやはりと思う。割った卵の黄身がざるの下まで流れてしまっている。
「元基、何か汚い……」
「しくった、卵の天ぷらは丼の時にしなきゃな。ま、腹に入ったら同じか」
おでんも食べた元基と葉月は支払いを済ませ、店の外に出る。まだ太陽はギラギラと輝いてアスファルトを焦がしていた。店の前に停めた自転車のサドルの熱さに閉口し、元基は立ち漕ぎをする。
二人は無心で自転車を走らせ、西村不動産の看板が見える分かれ道で止まった。
「ふわぁ、また夜にゲームでな」
あくびをしながら葉月が言う。
「眠そうだな。いつものメンバーだから夜は起きてろよ」
「帰ったら昼寝する。カイの散歩もあるから、親が帰る前には起きるよ」
「そっか。じゃあな」
元基と別れて、葉月は自転車のペダルを踏み込む。プールの帰りに本屋でゲームの攻略本を買おうと思っていたが、日射しが痛くて真っすぐ帰ることにした。
自転車をガレージに停めるのもそこそこに家へ入り、玄関で待つカイの頭をよしよしと撫でてやる。
「ただいま、カイ」
「ワンッ」
台所へ向かい空の水筒をテーブルに置き、冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注いで一気に飲み干した。更に麦茶を追加しグラスを二階へ持っていく。
部屋に入ってから背負ったままのプールバッグに気づいたが、明日使う予定もないから後で良いかと床に置いた。
麦茶を飲みながら扇風機のスイッチを入れる。睡眠不足と疲労感で一刻も早く眠りにつきたい。葉月はシャツとズボンを脱ぎタックトップにボクサーパンツでベッドに寝転んだ。
「……暑い。エアコンつけよ」
ごそごそと枕元のリモコンを探るが、今朝珍しく壁のケースに戻したことを思い出す。普段やりつけないことをするとこうだ。
「まあいっか、このままで」
身体がだるくて起き上がるのも面倒だ。少し開いた窓からも風は入るだろう。昼を過ぎたのにまだ蝉がうるさく鳴いているが、眠気には逆らえず葉月はそのまま瞳を閉じた。
風が吹いてカーテンレールの端に吊るした風鈴が涼しげな音をたてる。
リーン、チリーン。
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