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「願い」8
リーン、チリーン。
(何の音?……)
どれくらい眠ったのだろう、日に当たり過ぎたのかまだ体は怠い。葉月は働かない頭を振りゆっくりと体を起こす。
(何だっけ、よく聞く音……。ああ風鈴?)
タンクトップが肌にぴったり張りついていて何だか着心地が悪い。ひどく汗をかいているわけでもないのにどうしてだろうと、壁にかかった鏡に目をやった葉月は息が止まりそうになる。
「え……?そんな、バカな……!」
葉月が固まるのも無理はない。鏡の中の自分が大人の姿になっているのだから。いや、それが自分なのかもわからない、鏡を見ながらあちこち体を触ってみる。髪は長くなってはいるが、この馴染みのあるくせ毛は自分のもののようだし顔に面影も残っている。しかし骨格がしっかりしていて胸板も厚く自分の体とは思えない。
もしや、と若干の期待を込めて下着の中を覗くと見慣れた自分のモノではない別モノが平常時であるにも関わらず立派なサイズで中心部にいるではないか。
「うわっ!俺、もしかして大人になってる?……いや、えーと、うん。あー夢だなこれ」
そう思い頬っぺたをつねってみるが痛い。ひっ叩いてみてもやはり痛い。
(まさか現実?いや、痛いという夢を見ているということも……)
空回りどころか回りすぎる頭で考えてみるが、そんなことよりもう一度と自分の分身を再び確認して頬を緩ませる。
(大人になったら俺、渉兄とエッチできる?)
こんな時に何を考えてるんだと思わないでもないが、それこそが最大の関心事なのだから仕方がない。相手が異性か同性かを問わなければ、葉月に限らずこの年頃の男子なら概ね似たようなことを考えているだろう。そして、ふいにいつかの老人の言葉が頭をよぎった。
『叶えたい願いはあるだろう?』
『早く大人になって、好きな人とエッチしたい』
老人の問いに、思わず口から出た言葉は正直な気持ちだった。渉が女性しか愛せないのなら一生封印したこの想いも、そうではないと知ってからは、自分が大人にさえなれば受け止めてくれるのではないかとずっと思っていたのだから。
(まさか、もしかしたら、ひょっとして……?)
「いや、ないない。そんなことあるはずない」
お遍路結願の権利の譲渡なんて聞いたことがない。あの老人が結願したのかどうかもわからない。していたとしても「旅の途中に親切にしてくれた少年の願いが叶いますように」と祈ったかどうか。たとえ老人が心の底から祈ってくれても、到底叶う願いではないはずだ。
(でも俺、大人になってるんだよな。それとも、大人なのに頭ぶつけて中学生からの記憶が飛んじゃったとか?)
先日見た怪奇ドラマがチラリと頭をよぎる。
部屋を見回してみる。濡れたままの水着やタオルが突っ込まれているプールバッグ、机の上に広げられた夏休みの宿題と飲みかけの麦茶も葉月の記憶と同じ。父の働く造船会社のカレンダーも今年の物だと気づきホッと息をつく。
「いや、ホッとしてる場合じゃねーだろ」
こんなことはありえない。でも万が一これが現実だったらどうしようと混乱する。そんな時、玄関のチャイムが鳴った。
(母さん帰って来た?いやまだ仕事のはずだし……)
車の音もしなかった。いずれにしろ居留守を使うしかない。
「ワンッ」
カイが嬉しそうに吠えている。そして、この数週間ずっと葉月が聞きたくてたまらなかった人の声が聞こえた。
「葉月いるのか?」
(えっ、渉兄?なんでこんな時に!)
ガチャ、と玄関を開ける音がして、そういえばあまりの暑さに鍵も掛けず台所に直行してしまったことを思い出した。
「鍵開いてるし。いないのか?不用心だな」
カイが飛び出してしまわないように、渉は小さくドアを開けて体を滑り込ませる。
「カイ、一人で留守番?葉月いないのかなー」
(いない、いないから帰って渉兄。お願いだから)
葉月は祈るような思いで息を殺し、部屋のドアに耳をつけて渉の気配を探ろうとする。だが耳を寄せ過ぎてガタッと音を立ててしまった。
「あれ?いるのか葉月。上がるぞ」
(どうしよう!)
階段を登る足音が近づいて部屋のドアが開かれる。もたれかかっていた葉月はつんのめって、目の前にいた渉の足元に座りこんでしまった。
「大丈夫か?」
手を取ってもらい、立ち上がった葉月はいつも見上げていた渉が自分より頭一つ分小さいことに驚く。渉が自分を見上げている、それだけで目眩がしそうなほど嬉しい。
「きみ、……誰?」
「え?葉月だけど」
(しまった!なに普通に名乗ってんだよ。渉兄に俺だってわかってもらえるはずないのに)
「へぇ、きみも『葉月』なんだ。親戚?そういえば顔も似てるね」
似てるもなにも本人である。だがこれ幸いと、葉月は渉の勘違いに乗ることにした。
「うんそう。遠い……親戚なんだけど」
「そっか。ここの家の葉月は?」
「うっ!」
とりあえず思いついたまま喋ってその場を取り繕う。
「家の人は、えっと……旅行で。俺、留守番頼まれてて、ほら犬とかいるし」
「なんだ、葉月いないのか……」
しどろもどろになっている葉月を見ても、親戚だと思い込んだ渉に疑う様子はなく、いないことを残念がっているだけだ。渉は手にしていた袋からゲームソフトを取り出して目の前で振る。
「せっかくあいつが欲しがってたゲーム買ってきたのに」
見慣れたキャラクターの描かれたパッケージを見た葉月はあっと声を上げる。
「それ欲しかったやつ!おこづかい足りなくて、母さんに言ってもゲームばっかりするからダメって買ってくれなくて……って」
(失敗した!見た目大人なのにガキ丸出しじゃん。俺、残念な大人になってるーっ!)
さすがの葉月も幼な過ぎる言動に反省する。だがこのゲームは葉月の好きなシリーズの新作で、予約時点で生産数に達したほどの人気作だ。発売日がテストの直前でどうすることもできず、悔しがっていたのを渉も知っていた。
はしゃいだと思ったら急に黙りこむ葉月を見て渉は小さく微笑む。
「一緒にやる?ゲーム得意だけど」
「俺だって!」
「じゃあ、負けた方が勝った方の言うこと聞くってのどう?」
「いいよ」
「もう一度」と何度もゲームをせがむ葉月に渉はよくこうして宿題をさせていて、ついその調子で言葉が出てしまった。
渉はディスクをデッキに入れて、勝ったらもう一勝負かなと言いつつゲームの準備をしている。
一方の葉月は、隣に座る渉の体を凝視していた。子供の葉月からすれば十分大人だと思っていた渉の体つきが、今の自分と比べると随分華奢なことに気づく。コントローラーを持つ手も葉月の手ですっぽりと包めそうだ。
シャツの胸元から色白の素肌が見える。昔から外でキャッチボールをしても、すぐ真っ黒に日焼けする葉月と違って、渉は赤くなるだけで暫くすると白く戻る。母達も羨む渉のきめ細かな白い肌は特別輝いて見えた。
いつからだろう小さな頃は平気で抱きついていたのに、その肌に触れたいと思えば思う程ためらうようになっていた。
「ん?何?」
視線に気づいた渉は、葉月の顔を覗き込むようにして聞く。
「色白いなと思って。あ、ごめんっ」
「いや、よく言われる。きみやここの葉月とは全然違うだろ。あいつは一年中真っ黒に日焼けして、男の子らしくて羨ましいよ」
「そんなこと……」
渉がそんな風に思っていたなんて知らなかった。自分のことをどう思っているのだろう、面倒くさいと思っているのだろうか。知りたいことが次々浮かんできて、何から聞けばいいのか分からない。そして目の前のゲームソフトのことが気になった。
「ゲーム、買って来たのって……何で?」
「うん?」
「あ、いや……これなかなか手に入んないのに」
少し考えて、自嘲気味に渉は呟く。
「……お詫びかな」
「お詫び?」
「俺のこと、お兄ちゃんみたいに慕ってくれてる葉月を、怒らせちゃったから」
「……っ!」
(そんなんじゃない、お兄ちゃんだと思っているから怒ってるんじゃない。俺が渉兄のことが好きだから、あいつとあんなことしてるのが嫌だったんだ!でも……)
こんな姿の自分がどう伝えていいのかと悩んでいるうちに、ゲームの読み込みゲージがいっぱいになる。インストールが終わりオープニングムービーが始まった。
「やろっか、ゲーム」
「うん……」
渉からコントローラーを渡され葉月はそのままゲームをすることにする。後で聞けばいい、自分を、隣の葉月をどう思っているのか。ゲームで勝って答えてもらおう、そう決めた。
色々なキャラクターで対戦するこのシリーズは葉月のお気に入りだ。一人で遊ぶのも大勢でプレイするのも楽しい。渉は必殺技を打つべく地道にアクションゲージを貯めようとしたが、間もなく葉月の操作するキャラクターが剣を大きく回転させ、一撃で渉の操作していたキャラクターを戦闘不能に陥れた。
「何でっ?」
「新作はこのアイテム手に入れたら充填なしで必殺技出せるんだ」
「きみ、これやったことないんじゃ……」
「持ってないけど、やったことないなんて言ってないしっ。友達が持ってるから、家に遊びに行ったら毎回やってる」
そうなのだ、葉月はソフトを先に手に入れた元基のところで、持ち主より上手くなる程ゲームを知り尽くしていた。初めて同士でそこそこの勝負になると思っていた渉は、不意打ちの攻撃に不満そうに突っかかる。
「ずるいよ。今のはなし、もう一回!」
普段の葉月には見せない拗ねたような表情を浮かべて、渉は隣に座る大型犬のような葉月を上目がちに覗き込む。
「……っ!」
目が合った瞬間、葉月が唇を押しつけてきた。渉はあまりのことに驚いて後ずさろうとするが肩を掴まれて動けない。
「ん、んんー」
渉が息苦しさに抗うと、熱い唇がゆっくりと離れていった。
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