不完全変態

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 よく見るともう一匹の蝉が今まさに蝉になろうとしていた。木にへばりつき、踏ん張るかのようにその身を外に出そうとしている。ぶどうを押し出すみたいににゅっと、ゆっくり、ゆっくりと出てきていた。 「がんばれ……」  グニグニとめっちゃ動く。目がつぶらで愛らしかった。赤子が生まれる前、妻の手を強く握るように虫かごを掴む。実際経験したことないし、独身だからわからないがたぶんこんな感じだと感情を入れる。 「…………」  しかし長い。超ゆっくりだ。飽きた俺はそこら辺に投げ捨ててあったヤング雑誌を手に取る。もう何回も見たものだったが、舐め回すような目つきで見ていた。時々「へっへっへ」と声が漏れる。  いつの間にか、蝉の全貌があらわとなっていた。透明感のある、薄緑色をしていて神秘的だった。  蝉になった。この蝉は蝉になったのだ。その瞬間を見れただけで俺は感慨無量だった。これがどれだけ貴いことか。 『ミーンミンミンミンーー』 「うるせえな!」  野生の蝉が雰囲気をぶち壊してきた。KYめ。これだから野生はと悪態をつきながら、この子を蝉三郎と名付けた。お前はあの蝉のようにうるさくならないようにと願いを込めた。  虫かごを床に置いた。蝉三郎を見ながら沖縄そばを食べる。伸びていてあまりおいしいとは感じない。しかし、生きるためには食わねば、ねばねば、しゃばだばどぅ。めんどくさいから頭の中で曲をかける。 「しゃばだばしゃばだばどぅ~」  下のババァも同じものを聞いていた。「気が合うな! ババァ!」と声をかけると「うるさいよ! 静かにしな!」とどやされた。なんて理不尽な。  だが、気づいたのだ。俺はまだまだ成長できる。この蝉のように、大空を羽ばたけるようになれるんだ。そう思うと仕事をしなければと。世の中のために働いて、誰かのために尽くして死んでいきたいと、そう思えた。蝉五郎のように。あれ、蝉郎だっけ? まぁいいか。  『宇宙戦艦ヤマト』が聞こえる。着信音だ。俺は大量の宝くじに埋もれていた携帯を取り出し、『や~ま~と~』を聞き終えてから電話に出た。 「はい? あぁ、どうも先日は。えぇ、えぇ。採用? 本当ですか!? えぇ! お断りさせていただきます。じゃあ」  コンビニは嫌だ。時給のわりにやることが多すぎるから。  また明日から頑張ろうと、そう心に誓った。
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