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秋知の部屋を後にして、マチはすぐさま運転手の築の元へ向かった。というのも誰がどこにいるのかわからず家の中を巡って見つけたのが鵡川と沢三谷の両者だったが、彼女達は冬生二葉が言うようにひっきりなしに動いてとても話を聞けるような状況にはなかった。邪魔をしないよう、他の人間がどこにいるのかを問うと件の奈津先生は部屋だと思うが確かではなく、築ならば車庫に併設されている運転手控室にいるという。弾き出された結果として築しか残らなかったという具合だった。
つい数時間前に入った玄関を抜けて右手、広い敷地内、鵡川が言うには家とは少し離れた場所に大きな車庫があり、そこに設けられた一室が運転手待合室となっているという。
止まず降り続ける小雨の中、コンクリートで整地された敷地内は雨独特のにおいに混じって草木の青が香った。剪定も行き届きひとつの芸術品のようなそれらはこだわって植えられたのであろう。大きな家をぐるりと囲むようにどの部屋からも豊かな緑がまず目に入るようだった。
あまりに現実離れした環境のような気がしてヒムラにはそれが全て財産があればこそに見えていたが、よく考えればどれもこれもが娘の秋知の為に成せたものなのかもしれない。大きな家も財産があるからこそではない。体が弱い秋知が外には出られずとも好きなことが出来て歩き回れるだけの広さ、どの部屋にでも彼女のベッドを置けるだけの広さ、どの部屋からも心落ち着ける景色が眺められる大きな窓は時に外には出られずとも一緒にその空間を過ごせる、彼女を守りながらも隔たりのない世界ともなるであろう。
考えれば考えるだけ、冬生憲三と二葉夫妻は娘の為に出来る全てを、惜しみなく尽くしているように思えた。これだけの豪邸もそう考えるとなんだか悲しいばかりだ。ヒムラには見えないが、それでも感じることの出来る冬生家を覆い尽くす闇は、何故そうも、彼女ばかりを暗がりに寄せようとするのか。
彼女のことに悲しくなるだけでもなく、様々が不確かな中、まして赤の他人の家をうろつくのは了解を得ているとは言え心細いものがある。ヒムラはマチの背中について歩くだけだが肩身が狭く何とも言い難い気分だった。けれど言われた方向にある殆ど一軒家と変わりない大きさの車庫を確認すると地面から一メートル程シャッターが上がっており、そこからあの見知った、枝のように細くまっすぐな築の足が覗いていて安堵した。何故か、最初に顔を合わせた所為かいやに安心感がある。いや、既視感がある所為なのかもしれない。
マチに続いてシャッターを潜り抜け、ヒムラが顔を上げた時にはあのうさん臭い表情が既に会釈をして待ち構えていた。
「お三人でどうしましたか。濡れてしまったでしょう」
ヒムラにはその知識はないが、きっとどれも高級なのだろう。広い車庫内には三台の車が並びどれも美しく磨かれ曇り一つない。これも、この築の仕事なのだろうか。几帳面さがなんとも、「らしい」気がした。
「秋知の件で話を聞きたい。あんたも冬生の運転手をして関わりも深いだろ」
「いえ、私なんてまだほんの七年です」
「七年でまだまだなんですか」
運転手、という職業があまりに自分の人生からほど遠く、ヒムラにはその経年が短いとは到底思えなかった。小学生すら七年では中学生に上がる。
築の返答に食い気味で反応したヒムラに、築は身に沁みついた動作で会釈をした。その手には鳥の羽のはたきを携え、今は動かす素振りはないが様になる。
「はい、前任の方が随分と長く勤めていらっしゃいましたから。私なんてまだほんのひよっこでしょう」
「なんか……やっぱり住んでる世界が違う……」
言って、ヒムラは自分の放った言葉に首を傾げた。そもそも世界が違うだけなのかもしれない。
ヒムラが傾げた首の先で、少しばかり高い場所にあるカケルの顔がいかにも爽やかな表情で車庫内を眺めていた。今回は、一体どんな役目を言われてここまで黙っているのだろうか。勿論、ヒムラにはそれが明かされてもいない為カケルのしていることはわからないが、なにか、話題に参加しない、というよりは〝別のこと〟を進めているように見えた。冬生ふゆきの家の人間との対応はマチ、その間にカケルがなにかをしている。
なにも役目を言われていないのが自分だけである実感をすると、なんだか寂しい。マチと過ごすようになってから二年が経つが、こうして時折、何故なんの役目もない時分を連れ歩くのかがわからなくなる時がある。カケルがマチにとって絶対の相棒であることが余計の自分の存在意義について考えさせてしまう。マチもカケルも、そんなことを望んで自分を側に置いているわけではないのだが。
マチは自分に居場所も、ある種生命も与えてくれた。だからこそ常に、それに報いたい気持ちで張り詰めてしまう。
「お嬢さんのこととは言いましても、私は旦那様の運転手ですので、関わりとしては……そうですねえ。私が前任の方から職務を引き継いだ時、お嬢さんはまだ九才で、そうですね、あの頃は少しばかり喧嘩が多かった。そりゃあ、子供にとって病院なんてものは忌まわしいですよ。それでなくともお嬢さんは他の子のように元気いっぱい遊び尽くすようなことも出来ませんでしたから、病院なんていう大人でも嫌気がさすような場所に頻繁に閉じ込められては耐えられません」
「秋知の呪いに関しては最初から聞かされてたのか」
「ええ。でも、聞かされた時は正直信じようがありませんでした。目に見えるわけではありませんし、現実味もないですからね。しかし、実際お嬢さんにはなにもないんです。腫瘍だとか、数値だとか、体を蝕むものが。何度病院で精密検査をしても、何度体中を調べても。悪い、という部分がない。それは旦那様が言うように、本当に生命が薄まっていくような有様です。生命自体が、お嬢さんの体から薄まっていくような」
なんとも苦しそうな表情をして築はひとつ、深くゆっくりとした呼吸を置いた。彼もまた冬生夫妻と同じく秋知が幼い頃からその苦痛を目の当たりにして来た。ほんの子供である彼女が何度も繰り返される検査に耐えられるはずもない。きっと、その涙すらも見て来たのであろう。何年も、何年も。
「病院への送り迎えも私がしておりましたから、車中でお話を聞くことも多かったのですが……そうしている内に、信じる他なくなりましたね。こう言っちゃなんですが、冬生の家には財産があります。私も不自由なく、十分すぎる程の給与を頂いていますから。その財産を尽くしてお嬢さんの検査を繰り返しましたし、効くかもしれないと言われた薬も試して、金額に上限など関係なかった。そこまでして悪い部分の一つもなく原因不明とは、この現代の医療でありえますでしょうか。徐々に徐々に、なにか症状があるわけでもなく生命が薄まるような弱り方は、私は医療でどうにかなるものとは思えません」
「秋知自身のことではなく、秋知に降りかかっている呪いのことは」
語調が強まり築つきの感情的とも言える言葉の数々に、マチは元からの能面を微塵も変化させることなく抑揚のない低い声で少々、まくしたてるように問いかけた。
築の感情の表れになにもおかしなところはないように、ヒムラには思えた。しかし、マチはやはりまだなにかに苛立っているように思える。目元の痙攣はない。けれど強まる圧が声に出ていた。
マチの意図とは違う答えであったにしても、なんだか様子がおかしい。圧を向けられた築もまたそれを感じ取ったようで「ああ」とか「ええ」とか続けた後に手にした鳥の羽を撫でた。
「なにがどうなっているのかとか、私の目に見えたものはなにもありません。先程も申し上げましたように、お嬢さんの命が医学的に問題なくとも薄まっていく、見えていたのはこれだけでございます」
築は、終始マチの顔を見ずに答えた。落とされた視線は手元の鳥の羽か、もっと先の地面かに突き刺さったまま上げられることもない。マチもまた、暫く黙った。それはお互いがけん制し合うような、妙な空気感であった。
「前任者には会えるか。随分長くこの家で働いていたなら話を聞きたい」
「ええ、それでしたら私が連絡をしてみましょう。元々この仕事を紹介して下さったのも館脇さんですから、久々のご挨拶も兼ねて」
「頼んだ」
築の胡散臭い顔は〝そう見せていながら〟やはりマチに目を向けることはなかった。カケルが女性を前にした時に行う〝見ているようで見ていない〟、あの目とよく似ていた。そんな目と長年過ごしているマチが築つきの所作に気が付かないわけもないだろう。だが何故、築が急に〝そう〟しだしたのか、会話の全てを聞いていながらもヒムラにはわからなかった。
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