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「あれ?」
真横に大きく広がる窓の外に秋知は困惑の声を上げ、僅かに腰を上げて外を覗いた。同時にマチも頭を擡げ秋知と同じように窓の外を眺めると、そこには白衣を着た五十代頃の男が、敷地の裏門らしき場所から向かっている最中であった。その風貌を見て察したマチの目元が〝嫌なもの〟を見るように細められた。
「あれは」
「あの、安屋さんです。確か小学校低学年に何年間か私の主治医をしていて、独立してから違う先生に変わったんですけど、病院に行くのを止めた頃から何か月に一度私の様子を診てくれていて」
語る秋知は、けれど怪訝な表情で未だ窓の外を見つめていた。その視線がやっと自分に向いたことでマチは安屋という男がこの家に入ったことを確認した。
「つまり、今日は来る日じゃないってことだな」
秋知は「はい」と重く頷きやはり困惑を隠しきれずにいた。その反応だけで理解出来る、つまり、普段は事前に知らされずにその安屋という男が来ることはない。
「妨害だけじゃ気が済まねえってことだな」
秋知は知らされていなかった、安屋が医者であればこの家で彼と関わるのは秋知のみ。それを知らされることなく、通常通りではない現れ方をしたということは、彼を求めたのは秋知の為ではない。
どこまでも、娘の命を軽くあしらう――
吐き出された言葉と同時にあからさまに不愉快な表情となったマチに、秋知は更に困惑し、恐らく母親に確認しに向かおうとしたのであろう。立ち上がろうとした所をマチの腕に止められた。そして――
「いつも通りにしてくれるか。いつも通りにその医者に接しろ。なにかおかしなことがあっても言わなくていい、それは俺が察する。なにもしなくていい、いつも通りに」
せき止められた腕は秋知とさほど変わらない、けれどびくともせず、その言葉にも秋知は強味を感じた。
空気が張り詰めるようだ。無感情の様に振る舞う彼が、今、怒りの感情で満たされているようだった。
「やあ、秋ちゃん」
扉が叩かれるまでの間に、秋知は言われた通りに平静を取り戻そうと努めた。そうして間もなく、性急なノックと共に開かれた扉から覗いた顔はやけに晴れやかで、この梅雨の纏わりつくような空気も増して暑苦しく思えた。
安屋という男はいかにも医者らしく、登場が違えばこれ程の疑心を抱くことにもならなかったのかもしれない。それ程白髪もない黒髪を撫でつけ、細いフレームの眼鏡の奥、その目に狼狽えた様子もない。秋知がまだまだ子供の時分に担当していたということもあり、刻まれた皺も笑顔によく馴染んでいた。
恐らく、マチがこの場にいることも、その理由も、安屋は聞いているのだろう。部屋に見知らぬ男がいるという状況にも動じることなく笑顔を崩さぬまま会釈をした。
「いやあ、すいません、お取込み中の所。次回の予定の日が私の都合でどうにもならなくなってしまって、無理を言って今日にずらしてもらったんです。先客がいるからと窺っておりましたから、どうぞお気になさらず」
あまりに平然と語る安屋に、秋知は一瞬マチへと視線を移した。けれどそのマチの方が余程堂々としていて、まるで先程の会話さえもなかったかのようだった。立ち上がり「どうぞ」と椅子を安屋に譲る仕草にさえ余裕が見えた。
「すみません、では、失礼して」
いつも通り、なのだろう。安屋は椅子の横に往診用の鞄を置き秋知と向かい合った。
安屋を経た背後にマチがいて、少し離れた場所で彼はなんのこともないように部屋の中を眺めていた。本棚の前で立ち止まり、どうやら中学の頃の国語辞典を手に取り眺めているようだった。
その間、安屋はこれまで通りの診察を進めていた。他愛もない会話を挟みながら最近の調子を聞く。それはいつ頃までかは逆だったものがこの順になった。重要なことが、きっと逆になった所為なのだろうと、秋知は理解していた。
熱を測り喉を見て、首を見て、心音、血圧、いつも通りに進んでいった。
「彼氏ではないの?」
唐突に安屋が問いかけた言葉に、秋知は反応が遅れた。この状況でそんな言葉が出るとは思わない、その上、安屋は先程彼がここにいることを「聞いている」と言ったはずだった。何故、そんな質問をするのか、思わずにいられなかったのだ。
「違います」
混乱しているとは言え互いの中を考えればあまりに簡素な応え方をしてしまった。無礼なことをしてしまった。秋知がそう考えたのと同時に安屋にも思う所があったのかもしれない、秋知の言葉に愛想笑いをした以上の反応はなかった。
会話を交えて凡そ十分程度「退散するね」という安屋が椅子を立ち、秋知に次回の約束と別れを告げてからマチに対して会釈をして部屋を出て行った。その瞬間、秋知はマチを見たが、マチもまた秋知を見て扉を指さしていた。一瞬では意図が伝わらず、立ち上がろうとした秋知を制し、マチが自分と扉を交互に指さし、それが「自分が行く」という意味で秋知に伝わると彼女は静かに頷いた。
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