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「大丈夫、必ず、必ず迎えに行く。どんな場所でも、なんであっても、きっと。君が眠っていたら私が起こして、君が初めて目にするのは必ず私のことだ」  女はずっと、譫言(うわごと)のように繰り返す。既に眩みはじめた視界をいっぱいに見開き、一時でも多く、長く、愛する者を留め続けようと必死に。  けれど視界は眩む。愛する者を離さず、手繰り寄せる手も次第に力が抜け、一層不安と恐怖が襲った。  譫言(うわごと)のように繰り返す、何度も、何度も繰り返す。  やがてその言葉も喉から漏れる肺の稼働音のみとなり、そして最後の一つが鳴って、それさえも途切れた。 「君が目覚めた時、私は必ず君を見ているよ。君が最初に見るのは、必ず私だ。だから、だから」 ※ 「まだ降ってる」  走るJRが轟音を立てて長いトンネルを抜けた後、視界が白みがかった瞬間に空の青を期待したが、結果幾つものトンネルを抜けた先も空は変わらずの曇天だった。窓ガラスを斜めに移動する水の跡もまるで乾く気配もなく、絶え間なく増えていく。  トンネルは三つか、いや五つだったか、とても長い間続いたはずだ。ならば山一つか相当の距離を移動したはずで天気の一つ位変わっていてくれてもよいはずだ。纐纈(はなぶさ)ヒムラは辟易として、天井を仰いだ。狭苦しい場所でただただ座り続けるのにも、もう飽きた。退屈が限界である。 「ねえ、もう着くよね?」  ほんの小声で問いかけると、柔らかな表情が、柔らかな動作と共にヒムラに向けられた。  まるで彼が生きている世界だけは泡か綿で成り立って、時間の概念すらも必要ないかのようだ。もう何年も、彼が自分と同じ時間を過ごしている実感が沸かないままでいる。本日も例外なく身に着ける全てのものも柔らかい色味で構成されている彼は、もしや鮮明な、はっきりとした色を纏うことを禁じられた呪いにでもかかっているのかもしれない。 「そうだね、今度こそはもう少しで着くんじゃないかな。ほら、到着時刻もそろそろだから、大丈夫」  見た目も空気感も、その声さえも柔らかい。佐久間(さくま)カケルは目の前の座席にある切符ホルダーを指さして僅かな声量で囁いた。その声は周囲の客にも、斜め前に座る〝爆弾〟にも配慮しきったものであった。  「今度こそ」というのも、ヒムラはこの二時間程、ただ座り続けることに嫌気がさし、何度も何度もカケルに同じ問いをし続けているのだ。カケルは嫌な顔一つせずにその都度違う答えを返してくれた。お陰でヒムラも「さっきもそう言った」という文句ひとつ返せずにいるから、これはカケルが上手であるに違いない。  混雑するJR内、窓際にヒムラ、通路側にカケルと〝大きいのが二人〟並んで座るのは、目下〝爆弾〟がグロッキー状態を続けている所為であった。  この混み合うJRで二人分の席をとって窓際に一人で陣取り、今にも体の内部にあるもの全てを吐き出しそうな彼はその体を窓枠にしな垂らせ、コンパクトに座席に収まっていた。  吐き気を我慢するとやけにあくびが出るという彼の、そのあくびもため息も聞こえなくなってからどれ位が過ぎただろう。ヒムラの席から隙間をぬって見える白みのある金と黒の混じった頭が微動だにしなくなって、優に三時間を超えた。眠るのが下手で苦手な彼が眠っているわけもない。だが、随分長い間、動かない。  ヒムラの退屈に飽き飽きしたこの我慢の限界より、彼の、日昏(ひなき)マチの生命の限界の方が、余程重大な状況にもあった。 ※  三時間のJRから解放された後一時間の新幹線を経て計五時間長の大移動も漸く終え、完全に憔悴しきったマチと、反してやっと狭苦しい車内から解放され晴れ晴れしいヒムラ、そこだけ違う世界を生きるカケルと三者三様、駅へと降り立った。  大きな駅構内はコンクリートの所為か、車内の人体から発せられる生温い湿気より幾分冷たい印象ではあったが、それはそれで素肌に纏わりつく感覚への不快感に変わりはなかった。行き交う人々も互いを避けて歩くのは、その肌が触れる不快感からなのかもしれないとヒムラは思った。肩にかけたボストンバッグを手繰り寄せる腕を、意識して自分の体に引き寄せた。  マチだけは相変わらずの手ぶらで、その分カケルがスーツケースを引いている。そこから更に溢れた分を、ヒムラが肩にかけていた。  今回の依頼はマチの考えでも何日かかるか予想がつかなかった。まして地元でもなく、ヒムラ達が住む土地から五時間強の旅。それなりに用意も準備もしてくるとなると相応の荷物となった。スーツケースの中にはこれまでヒムラが見たこともないものが幾つも詰まっている。器具や、それに使うなにか、草、紐、紙、革に巻かれたなにか、本当によくわからない。だが、それだけ用心する必要があった。今回の依頼が、呪いであるからには。  三人が改札を出て広い正面入り口ホールに出るとあまりの人だかりに目印を探すことすら困難な状況だった。目印は「わかりやすいはず」と、「この土地が地元の有名人の看板の真下、そこにスーツ姿の男を待たせている」というものだった。  だが、いざこの場に立つと「その看板」がやけに多い。確かに、マチの影響でさほどテレビを見なくなったとはいえヒムラでもその有名人が地元で大人気であるのは知っている。だから、とんでもなくその有名人を使った看板が多い。大小様々、目を向けた先々に待ち構えている印象だった。 「いや、どれ」  長い時間狭苦しい場所で我慢した後すぐに開放されると思いきやの仕打ちに、ヒムラはあからさまに苛立ちを見せた。  梅雨の時期の六月下旬、訪れた土地は日頃暮らす土地とは打って変わっての気温の高さに人口密度、漂う湿気すらもどこか違うように思えた。肌を覆うように纏わりつく生暖かさはヒムラ自身の感情を煽るように肌や服の凹凸、髪の中にまで居座り続けてどこまでも不快感を残した。 「一番でかいのから当たるしかねえだろ」  暑さは苦手だが同時に太陽が嫌いで、雨が好きなマチはこの環境にそれ程堪えた様子はない。けれど凡そ四時間振りに聞くマチの声は、雑踏に紛れて流れて行きそうな程掠れていた。そうして出入り口の真上に設置された「ようこそ」と迎え入れる有名人の笑顔へ向かって歩き始めた。
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